前回の東京コイノニア会で「 新しい年を迎え、この年はどう進んでいくのかという期待と予測のつかない気持ちで日々すごしています。世界が大きく変化していくような転機の年になるのかも知れません。皆さんにとって、この年がどのように臨んでくるか、どう想像されていますか?今問題・課題となっている諸問題に対し、自分なりの予想をたてて、今年の年末にどの位あっていたかを検証することもおもしろいかも知れません。1年と言わず、3ヶ月でもいいかもしれません」と述べましたが、まさかこんなにも想像のできないことが現実におこるなどとは思ってもみませんでした。
北京オリンピックは予定されていたので、予想はつきますが、予定されていないロシアによるウクライナ侵攻などは全く予想ができませんでした。また、今後どのようになるのかも、予想が立てがたいものです。予想し得る可能性のある結末をイギリスでは5つ、アメリカでは6つあるとある方が、述べておられました。
こういう時代、予想できない事態が起った時は、背景、動機、利益等を考えて、十ほどの可能な結末を、念入りに考えてみるという姿勢が必要なのかもしれません。ユダヤ人は、移住先でおこる不都合な事件に対して、いつもそれを対処する方法を何通りか考えていたようです。
イアン・ブレマーという人がいます。2月15日版Newsweekにイアン・ブレマー氏の記事が出ています。彼は、アメリカの国際政治学者でユーラシアグループを設立、世界10大リスクを毎年予想して、例年かなりの確率で世界の行方を当てていますが、その彼にしても、今回のウクライナ問題は取り上げられてはいません。2011年に発表した地政学的概念「Gゼロ(リーダーなき世界)」は国政秩序におけるアメリカの主導的役割の低下が引き起こす世界的混乱に警鐘を鳴らし大きな注目を集めました。大きな世界の動きについては、その予想は外れてはいない様に思えます。地政学的分析の羅針盤として世界でその分析が尊重されています。
大きな流れの中で、イアン・ブレマーが危機として取り上げているのが、「テクノポーラーな世界」の危機ということです。このことばは、新しいものですが、すでにウクライナ問題でも顕著になって来ているようです。具体的な覇権国家が世界秩序を設計できない時代にうまれてきたデジタルな新世界秩序の構築の様相です。
ウクライナについて、日々ニュース、映像が流れて来ています。だれも、デジタルな情報から逃れることの出来ない時代に生きています。それで、わたしたちは、判断を左右されたりもします。しかしながら、デジタル情報は極めて、恣意的に操作されやすい媒体です。加工された情報が一方的に入ってくると、正しいと思い込んでしまいやすいのですが、そこで、本当かどうか、分析と多種な対応策が必要になってくると思います。
心理学テストで、同じ長さの線であっても、〈————〉と 〉————〈 の棒の長さが違って見えたり、背景の灰色の濃さによって、本当は同じ彩度の白の角片が違って見えたりするする実験をご存知かとおもいますが、私達の目は容易にだまされされやすく出来ています。錯視、錯覚をしてしまいやすいのです。私が、この目で見たので正しいとは、必ずしも言えない、そういうことが容易に操作できるデジタルの時代にわたしたちは生きているのです。ある意味、何が本当で何が嘘なのかが極めて分かりにくい時代にはいっており、それが世界秩序の問題にまで影響を及ぼす時代となったということです。「そうかもしれないけれど」、「そうではないかもしれない」、などという曖昧な世界、それをイアン・ブレマーは「テクノポーラーの世界」の前提として考えているようです。
2022年を襲う10大リスクの2つめとして、「テクノポーラー」な世界をとりあげ、「デジタル空間で過ごす人の数は増える一方だが、それに伴う社会的混乱のリスクも拡大する。巨大テック企業は経済的・社会的機会の与奪権や思考回路にも影響を与えるアルゴリズムを書いているからだ。テック企業が〈主権〉を握るデジタル空間に各国政府が介入できる余地はわずかで、ガバナンスの欠如がもたらす混乱は拡大する。」とありました。
そういうリスクを負ったわたしたちであることを自覚しつつ、日々過ごしていくことかなと思います。揺れうごく大地に立って、北極星のようにわたしたちのあり方に不動の点を示すものは聖書かとおもいます。
今日は、ヨハネ第1の手紙4章7節から12節をとりあげたいと思います。
4:7〈愛する者たち〉と呼びかけ、新しい展開をみせます。
その後わずか6節の中に、同じ語が何度も繰り返しでてきます。
4:7〜12にみられる〈愛〉〈神〉〈わたしたち〉の使用頻度は以下の通りです。
〈愛〉 15回
〈神〉 13回
〈わたしたち〉 11回
ここの章句は、この語彙で語り尽くしているようです。一旦キリスト教徒になりますと、このことばの結びつきになんら不思議な感覚を覚えることはなくなるかもしれません。
しかしながら、この結びつきは、本来特別の経験がなければ、理解できるものではありえません。
C.S.ルイスという英国のクリスチャン作家は『四つの愛』という本を書き、愛情、友情、恋愛、聖愛について、描いています。その序文で
「〈神は愛である〉とヨハネは言う。私が最初この本を書こうと思った時に、このヨハネの名言は、主題全体を貫く極めて坦々たる大道を私に備えてくれるものと考えた。人間の愛は、〈神は愛である〉というその愛に似ているかぎりにおいて愛と称するに足る、と言うことができるように思った。したがって私はまず愛を二つに区別し、それぞれを与える愛Gift-loveと求める愛Need-loveと名づけた。与える愛の典型的な例は、自分はそれにあずかったり、見届けたりすることなく死んでしまうものでありながら、その家族の将来の幸福のために働いたり計画したり蓄えたりするように人間をしむける愛であろう。求める愛の典型的な例は、心淋しい子供や、恐怖におそわれた子供を母親の腕のなかに送る愛であろう。そのいずれが愛ご自身に近いかは疑う余地がなかった。神の愛は与える愛である。父は、その全存在、全所有を子に与える。子は自分自身を父に与え、自分自身をこの世与え、この世のために父に与え、かくして、さらにこの世を〈自分自身によって〉父に与える。」
と文章を始めています。
わたしたちの愛、とくに前回みたように〈兄弟愛〉は、父を根拠にしています。父なる神が愛を示された結果、わたしたちも愛するようになる。類比の形をとっています。〈愛〉ということばは、まず神を前提にして、はじめて日常的な行為までおりてくるのです。
4:7 愛する者たちよ。:(呼びかけ)ある翻訳者は〈愛される人たちよ〉と受身の形で訳している
わたしたちは互に愛し合おうではないか。(勧め)
愛は、神から出たものなのである。 (根拠)
すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。(由来と認識)
「神から出た」「神から生まれた」という表現は2:29、3:10、4:1、4:2、4:3、4:4、4:6に何度もでてきます。また、「互に愛し合う」(アガポーメン アッレールス)も3:11〜23に繰り返しでてきました。
ある意味繰り返しの表現でありますが、津村春英氏は『「ヨハネの手紙一」の研究』で
「今までの表現は「神が与えた戒め、すなわち外から内への動機付けであるのに対して、この4章では〈愛は神から出ている…愛する者は神から生まれている〉と言う様に、内から外への動機付けとして、〈互いに愛し合う〉ことを勧めている。したがって、3:11〜23の単なる繰り返しではない。」と註釈しています。
4:8 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。
ここに対比表現が出てきます。愛する者は神を知っている。愛さない者は神を知らない。
そして、ヨハネ第1の手紙の著者は大胆に〈神は愛である〉という。キリスト教信仰の基となっていることばである。だれがこうはっきりと言えたであろうか。なぜ、そう断言できたかは、次の句が歴史的な根拠になっているからです。
4:9 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
ここに神の独り子なるイエス・キリストの派遣ということが取り上げられています。ここは、ヨハネによる福音書3:16「神はその独り子を与えて下さった。それは、御子を信じる者が皆、滅びないで永遠の命を持つ」と同等のものです。
わたしたちが父なる神の愛に似せて、兄弟を愛せる様になるには、イエス・キリストの派遣が必要であった。そして、その派遣の直接的な目的は、罪の問題の解決にあった。〈罪の贖い〉が愛の実現と大きく関わっている。単に〈お互い愛し合いましょう〉と勧められても、わたしたちにはすぐに従う力がないのです。
〈神は愛である〉 ということと 〈イエス・キリストが罪の贖いのためにこの世に使わされたこと〉とは セットになっています。 愛は罪と併せて考えなければならないのが、キリスト教信仰だと思います。罪が解決されないうちは、父の愛に気づきもしなければ、それにあずかって、兄弟を愛することも本当の意味で実現できないのです。そういう意味で神がすべてのイニシャチブ(先取的に)行動されたことが、愛のもとにあります。
4:12 神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。
ここは、時間的に見ると、逆になっているのではないでしょうか。
「神はわたしたちのうちにいまし」ということが、まず最初にあって、その後、「わたしたちが互に愛し合い」、それが、「神の愛がわたしたちのうちに全うされる」ことにつながるのだとおもいます。神の視点から、時間的にみればそうなりますが、人間の視点から見れば、4:12の表現になるのでしょう。
わたしたちの愛を阻む罪の問題が、父なる神の先取的なキリスト派遣と贖罪という歴史的出来事によって、はじめて父の愛を知り、受け入れ、その愛を父にまねて、兄弟に示して行けると言うのが、ここで示されているメッセ―ジかと思います。
4:7〜12にみられる〈愛〉〈神〉〈わたしたち〉の使用頻度
〈愛〉 15回
〈神〉 13回
〈わたしたち〉 11回
4:7 愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。
4:8 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。
4:9 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
4:11 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
4:12 神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。
Comments