私 K・I の2011年までの生い立ちと証し
1956年、次男として生まれる。3歳上に兄がいます。父は公務員で母と4人家族のごく普通の家庭です。次男の性で兄のマネばかりしていました。兄が高校生の時に、○○市でキリスト教伝道をしていたアメリカ人宣教師B氏さんと出会い、キリスト教集会に行くようになるのを見て、私も同じキリスト教集会に行きたかったのですが、中学1年の私は同じキリスト教集会に連れて行ってもらえず、仕方なく地元の中学校の近くにある教会に行くことにしました。中学3年生の時に、○○山の湖畔にある修養施設での聖会キャンプに参加して、イエス様が私の救い主であることを信じました。この時が私の人生で大きな方向を示す出来事でした。今でもハッキリと、嬉しくて涙が止まらないその時の状況が心に焼き付いています。そして、地元教会宣教師であるH・E氏による洗礼を受けました。この時を機会にクリスチャン生活が始まりました。高校進学を機に隣町へ移り住むことになり、兄が行っていたキリスト教集会と同じ単立のキリスト教集会に移ることになりました。そして、25歳の時に同じキリスト教集会の女性と結婚しましたが、新婚三ヶ月の時に交通事故に会い瀕死の状況でしたが、一命を取り止めました。その後2女1男が与えられました。サラリーマンを6年して、30歳前に独立して、印刷会社を設立、自分で事業を始めます。時は追い風バブル前の何をしても儲かるといった具合で、印刷業とゲームソフトの販売店と事業を拡大しバブルがはじけても、順次業種転換を行い業績が落ちていく中にあっても、うまく時流に乗り、新規に株式会社を設立しTV通販事業を起こしました。自営業としては、成功者の道を進んでいました。どの仕事も浮き沈みはあるものですが、TV事業も陰りが来た時に、大阪の友人から、新しい事業を始めるから手伝ってくれと申し込みがあり、その話にのり、月、火、水、木と大阪、木、金と東京、土、日は群馬といった具合での生活でした。大阪の仕事は印刷とTV商品の卸とで順調でした。事業を立ち上げている最中に大阪のオーナーが麻薬で逮捕となり、事業の引き継ぎを任された私が、社長として進めることになりましたが、ここに大きな落とし穴がありました。今まで、したことのないネットワーク事業でした。一般的にはネズミ講に分類されます。私の今までの経験を生かして、何とか改革を推し量り正常なネットワーク事業へと努力しましたが、なかなか思うように進まず。2006年に刑事告発され私は社長としての責任を負い実刑判決を受け1年4か月服役することになりました。35年あまりの信仰生活での大きな転機が訪れます。
以上、大まかに55年間の粗筋を書きました。今、振り返り私の人生のポイントとなった所を詳しくお話いたします。
① 中学生の時に初めて教会に行く
自分で言うのも何ですが、この当時は内気で人前での話しや自分の意見といったものは持ち合わせておりませんでした。自分に自信が無く何をして良いのか何も分からず、ただただ、兄のマネばかりしていました。小学校の成績は母から何時も通知表を持って来ると、せめて3を取りなさいと言われるくらいの成績でした。今でも記憶に残るのは小学3年生の1学期の成績が上から下の方までオール2で一番下の体育だけが5。アヒルさんが縦に並んで奇麗に見えたことです。(母の言いたくなる心境が良く分かります)そんな状態で中学生となり、相変わらずの成績、私にとっては、勉強は苦痛のなにものでもありませんでした。ただ一つ体育だけは学校に通う唯一の楽しみで、クラブ活動は軟式テニス部。2、3年生と県大会に出場し、唯一の自己アピールの場でした。体育やクラブ活動が無かったら学校に通うことは無かったかもしれません。そんな様子の中で1年生後半の時に教会に行くのですが、毎日通う通学路に教会がありました。初めは教会の前で、もじもじとして、なかなか門をたたく勇気が無く、うろうろしていたのを覚えています。幾日かして門の前でうろうろしていましたら、牧師先生が声を掛けてくれてようやく教会の中へ入ることができた具合です。これで、兄と同じように教会に通うことができ、一安心といったところです。初めての聖書の話は何も覚えていません。各週の日曜日に隣町にある療護施設に日曜学校をしに行きました。私の担当は子供たちに紙芝居をすることでした。これが、なかなか私にとって大変でした。何故。紙芝居の裏に書いてある文章の漢字が読めなかったのです。その為、日曜学校の前の週に紙芝居を家に持ち帰り辞書で振り仮名を付けて読む訓練をしました。この時に思ったことは、聖書は何と素晴らしい本だろうと。私は本が嫌いでした。何故って、字が読めないからです。学校の図書館とは無縁でした。ところが、教会に通うようになってから本が好きになってきたのです。まず、聖書がすらすら読めるのですから、次に何が書いてあるのだろうかと興味が湧くのです。そんなことで、3年生の時には、大の苦手な国語が4になりました。今までの成績が何故悪かったのかは、一目瞭然、国語、数学、理科、社会、基本の字が読めないため、何を言っているかが分からなかったのですね。
遅ればせながら、このことに気が付いたのが中学生のときでした。
私にとって聖書は勉強の基本となったのですね。教会に通うようになって、近隣の同じグループ教会の学生との交流もでき3年生の時にバイブルキャンプでの信仰告白は私の人生最大の転機となり、苦痛のなにものでもなかった学生生活が実に楽しいものとなりました。この十代の出来事が現在に至るまでキリスト者としての歩みの初めです。
② 結婚と交通事故
高校進学ですが、母の実家が農家ですが跡取りが不在のため、私が跡を継ぐと言うことで、隣町の農業高校に進学することになり母の実家から高校に通うことになりました。これを機に地元教会から兄が行っていたキリスト教集会と同じ単立のキリスト教集会に移ることになりました。その頃は、学生のクリスチャンが多く近隣の町の各高校に聖書研究会があり多くの学生が参加していました。野外では同市内での三校合同聖書研究会が毎週土曜日にあり他校の学生との交わりも盛んでした。その中の一人が今の家内です。25歳で結婚しましたが、結婚三ヶ月にして、私が交通事故に合い瀕死の重傷で病院に運ばれ、駆けつけられる家族、親族はその日に呼ばれる状態でした。本人の私ですが、この時の状況を克明に記憶しています。先ず、事故ですが、1月の雪に覆われた状態で私は夕方用事を足すために、50ccのバイクで出かけ裏道の交差点の出会い頭で軽トラックと接触して私が転倒したものです。雪道ですからほとんど歩く速度でしたからたいしたことではない様に見えましたが、倒れて(右を下にして倒れる)起きようとしても、自分の左半分がまったく動かないので起き上がることが出来ませんでした。これは、首をやったと思い相手の車の方に救急車を頼むことをお願いしました。その辺までは記憶にありましたが、救急車に載せられたことは覚えていません。多分20分くらいで救急車は来たと思いますが、モーレツな痛みに襲われ、救急隊員に、名前や住所など聞かれていることは聞こえるのですが、自分の名前や住所が頭に浮かばないのです。言葉が浮かばないのです。呼吸は吸う時に波打ち今にも息が止まりそうに見えたのでしょう。病院では手術台に乗せられ着ている服はハサミで切って脱がせていました。聞かれても反応なく呼吸は波打ち、目にライトが当てられると光で私の脳は真っ白になりました。よくテレビで手術台に乗せられてさあこれから手術を始める瞬間テレビ画面が真っ白になる様子とまったく同じ様に、私の目に当てられたライトで私の視界が真っ白になるのです。つまり、瞳孔は開いている状態ですね。話し掛けても返事はなく、呼吸は波打ち、瞳孔は開いた状態、家族の者は呼ばれ痛み止めにモルヒネ2本打ちましたが、状態は変わらず、3本打つと危険だからもうこれ以上何も出来ませんと言っている声は私にはハッキリと聞こえるのです。本人は状況が分かるのですが言葉がでず、もどかしさが残ります。と言うことで、一晩ほって置かれることになりました。夜が明けるころには、意識も戻り言葉も話せる様なりました。でも左半分は動きませんでした。
生きていて良かったのですが、さあこれからが大変でした。1981年の医療機は今ほど開発されていませんでしたから、首がどの様になっているのが分からず、移動式の小型レントゲンで首のレントゲンを見ても・・・?(後日、頚椎 第4、第5の薄利骨折と判明)治療は子供の腕が抜けたときのように、関節と関節を引き伸ばして元に戻すやり方で、頭と胴体を引っ張って元に乗せかえるといった具合です。やり方は簡単です。先ず、胴体をベッドに縛り、頭を枕の替わりにコロ付きの板にして頭に二個の穴を開けピンを打ちその打ち込んだピンにロープを通し滑車でロープの先に重りを乗せるといった具合です。とても原始的ですが分かりやすいです。でも、当の本人はというと、この世の地獄の様でした。先ず。頭の毛を剃るのですが、首を動かさないように剃れる所まで剃る。つまり寝ている頭の下はそのままです。穴を開けるのですが、普通の大工道具の手動式ドリルでガラガラと音をたてて開ける。頭皮だけに神経があるとのことで麻酔なし、最初だけチックッと痛い頭蓋骨の削れる音が顎に伝わりガラガラの音がリアルに伝わる。頭蓋骨は約1センチあるから5ミリまで穴を開ける。この穴を2個開ける。クラッチとう道具で二つの穴にいれ動かないようにボルトで固定完成でしたが。クラッチの締めすぎでクラッチ破損する。この病院に一組しかないため、近くの病院に急遽借りに行く。ドタバタですね。今なら考えられない光景ですよ。この作業は病室で行なっています。さあ、いよいよ器具も取り付き体をベッドに縛り滑車を通し重り6キロからスタートです。首と胴体、つまり第4第5頚椎が離れるまで、毎日1キロずつ乗せていきます。最初は何とも感じませんでしたが、10キロごろからでしょうか、体は伸びないように一生懸命反発していますから体力勝負になります。歯を食いしばり抵抗します。11キロ、12キロと24時間ほとんど寝ずに抵抗します。目には泣いてはいないのですが一つ二つと涙が伝わります。12キロの重みに耐え切れずロープが切れる。ベッどの横に付いているブザーで看護師に知らせる。「ロープ切れましたよ。」蒼い顔して飛んで来る。「大丈夫ですか!」そりゃーそうだ。12キロの衝撃が折れた首にくるのだから。こんな事が二度あった。今思えば、これで死んだら完璧な医療事故である。結果は失敗に終わる。約二週間の眠れぬ苦闘は何の成果も無かった。眠りたいのに眠れない、とことん疲れ果てて目を閉じるが気は起きて緊張状態が続く、まったくの生殺しである。同じ頃に、階段を踏み外して落ちた老人が私と同じような治療をしていたら三日目で亡くなったそうです。無理もありませんね。実感です。治療方法がなく、もっと専門医の居る病院へ父が強引に転送させる。近隣の日赤病院に移ることになる。重症患者のため救急車での搬送となるこれで、二度目の救急車ですが、救急車がこれほど乗り心地の悪いとは思いませんでした。あまりの振動で寝ている私が宙に浮くのですから、搬送中に死亡も在り得る話です。この当時、全身CTスキャンは県内では一か所しかなく、日赤病院からまた、救急車でCTスキャンを撮りに行く。これで、三回目の救急車です。
ようやく、細かいことが判明しました。第4第5頸椎剥離骨折と頚椎の後ろに付いている頚椎を支える二つの骨が外れていることが分かりました。さあここで大きな判断を迫られます。このままで固定して直す方法と手術して直す方法があります。前者のそのままにして置くと首が回らなくなります。後者は成功率が50パーセントです。
第4,5頸椎には呼吸器系の神経があるため、損傷した場合呼吸が停止する恐れがあり、たとえ命があっても半身不随もありうることです。
後者を選択しました。本人、家族、加害者の同意が必要でした。
手術といっても特別な設備がある訳ではありません。トンカチ、ノミ、ノコギリ、です。後は医師の腕一本です。先ず、首の後ろからの手術となりました。患者は仰向けのまま身動き出来ませんので、どの様にするかですね。患者のベッドの首の部分に大きな穴を開けて患者をベッドに縛りつけベッドごと回転させるといった具合です。まったく焼き鳥のように裏返しました。まあ私は何も覚えておりませんが、とんでもない手術だと思います。とっても大変なことは、私の全身麻酔でした。寝たままで首が動かせないのですから、肺に入れる管がすんなりと通らないのです。気道を開かせる為には息を吐いた時だけですから、口の中に棒や手が入りなかなか旨く行かず、今度は鼻からチュウブを使って管を肺に入れることになりました。これも、手探り状態で私が息を吐いた時のタイミングで落とし込むといった具合です。これが、なかなか体力を使いました。麻酔をするのに悪戦苦闘一時間以上かかったとおもいます。
麻酔がかかるとスーッと意識が消えます。7時間の手術でした。家族の者にとっても、とても長い時間と思います。一回目の手術は成功しました。私は麻酔が効いている間は何も無かったかのようですが、麻酔が切れてからが戦いです。麻酔からの目覚めがこんなに苦痛なのかと実感です。とても、気分が悪いのです。起きたくないのです。7時間近く下を向いていましたから、点滴の水分が顔に貯まり顔全体が水ぶくれ状態になり、腫れが引けて一皮むけました。7日後、今度は首の前からの手術です。(これも50パーセントの確立) 後ろは外れた支えの骨を元に戻して金の針金で留めましたが、前からは、丁度、のど仏あたりから切り食道をどけて第4第5頚椎を動かなくするたに腰の骨でクサビを作り埋め込む手術です。これはかなり難易度が高いです。私はそんなことよりも、又同じ、麻酔のやり方が恐怖でした。先生に「麻酔をする麻酔はないのですか?」と聞くと今回は二回目だから大分なれたからそんなに時間はかからないといいました。さあ7日後に二回目の手術です。6時間かかりました。やはり麻酔をする麻酔がほしかったです。手術は成功しました。また、麻酔からの目覚めが悪く気分は最低でした。声を掛けられて返事をするのですが、まったく声が出ません? 意識があることを手でオッケーサインをしました。手術の際気管支を外に出したのでかなりの炎症があり、暫らくは声がでませんでしたが、無事手術は成功しました。父はこの手術で円形脱毛になりました。家族の辛苦が観えます。三ヶ月も寝たきりでしたので、ベッドに起き上がる訓練から腕を持ち上げる訓練と自分の足で歩く訓練とで退院するまでし半年かからました。仕事に復帰できたのは、事故から1年かかりました。
③ 独立して会社を設立し大きな落とし穴に落ちる
事故から復帰しましたが、なかなか思うように体が動かず復帰して間もなく腰に変調が起き腰痛と共に全身に振るえと熱がでてダウンしまた、三ヶ月間仕事を休みました。どうも、このままでは、体が持たないと考え自分で出来る仕事を始める事にしました。それが印刷の仕事でした。1年間、近くの印刷屋さんで修行して、独立しました。バブルの絶頂期でもありましたので、追い風に乗り売り上げはうなぎ上りで法人会社を設立し印刷業だけに留まらず、ゲームソフトの販売も始めました。年商5億になりました。その後バブル崩壊と共に事業変換し、印刷業を続けながらTV通販事業に加わりそれなりの実績を上げましたが、それ程かんばしくないところに、以前から交流のあった人から、これから新しい事業を起こすから手伝ってくれないかと誘われ大阪まで出向いていきました。仕事は通販カタログ20万部の印刷と通販商品の卸し提供でした。そこまでは、順調に見えました。具体的な印刷も整い商品の納入の準備も出来ていました。そんな矢先、オーナーが突然逮捕され、右往左往していましたが、事態が飲み込めてきましたら、オーナーの麻薬所持使用ということで、暫らく復帰が難しいことになり、事業の内容が把握できている者が私しかいませんでしたから、おのずと、事業継続のためにオーナーが復帰するまでの社長を引き受けました。ところが、事業内容はネズミ講に近い内容と気が付き、弁護士を雇い健全な事業にすべく、働きかけますが、トップのオーナー会員は賛同せず暴走し始め、事業開始から11ヶ月後に刑事告発となりました。何故、止められなかったのか。この会社の売り上げによる、私の別会社への利益が私の判断を狂わせました。聖書に「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」とあります。まったくその通りになりました。その後逮捕され裁判で実刑判決を受けることになります。
ここからの、出来事は体験ごとに題目を付けてお話いたします。
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