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ヨハネ第1の手紙 序文および1:5〜2:2(2020年11月14日 Y. A. 兄 講話)

更新日:2020年11月18日

 1:1から4は序文のことば  主に「いのちのことば」について書かれています。興味ぶかいことには、ここで、このいのちのことばが、聞く、見る、よく観る、手で触る、五感でとらえられるものとして描かれています。ヨハネの手紙第1を書いたグループ、ヨハネ共同体とよばれる人たちは、序文に五感を重視しています。これは非常に意味深いことであると思っています。


 最近、読んだ本の内の一つに大來尚純(おおぎ しょうじゅん)さんという方が書いた『超カンタン英語で仏教がよく分かる』という本を読みました。浄土真宗本願寺派のお寺で生まれ、龍谷大学を出た後、米カルフォルニア州バークレイの米国仏教大学院に進学し修士を終え、ハーバード大学の神学部研究員を経て帰国。通訳、翻訳、日英の執筆、講演などの活動を通して、国内外への仏教伝道活動を展開されている方だということです。

 わたしは、仏教用語がどのように英語に訳されているのかに興味がありまして、四諦八正道(したいはっしょうどう)、五蘊(ごうん)などを見てみました。仏教の基本的な考え方を知るのに必要な基本的な概念を英語ではどう訳しているのだろうかという興味があった訳です。

 英語は、抽象的な語彙もたくさんありますが、基本的に具体的に、日常語に還元できる用語を使って思考します。仏教の教えの基本的考え方の中に、『空』(くう)というものがあります。それを、大來さんはEmptinessと訳しています。そして、こう解説するのです。

「『空』(くう)はよく「からっぽ」のことだと勘違いされますが、実はそんなに単純な意味ではないのです。この世の事象は、何ひとつ単独の「個」として存在していないという意味です。『空』は漢字の意味を取って『Emptiness』と英訳されることが多いのですが、どちらかというと『Non-Being』のほうが意図は伝わりやすい気がします。」と書いています。

 そして、そこに大乗仏教の根本思想を見出しています。この『空』を巡って思想が展開されて行く訳で、偉い仏教徒に聞けば、より深い、広い世界があるのだろうとおもいますが、私にとって『Non-Being』(非実在)という捉え方が、とても気になったのです。仏教を批判するためではなく、この考え方は、ヨハネ第1の手紙の冒頭の思想と全く違うものと感じた訳です。


 五感でとらえられる実体のある存在、いのちのことばは、そう言う意味で、仏教的環境にある日本人にとって、あるいは異質なものかもしれません。しかし、それこそが、ヨハネ共同体の非常に大切にしていた信仰の核心だとおもいます。これは、論理的な思考の結果、導き出された者ではなく、いわば経験的な経緯をへて確信された信条であるとおもいます。

 信仰の初めには、このように論理というより体験的な認識(わかるということ)があるのではないでしょうか。キリスト教信仰の中心には マタイ16:17「あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である」とあるような神側からの働きがけ(後ほど聖霊の働き)が前提とされています。


1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―― 1:2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである―― 1:3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。


そして、その経験は、交わり、喜びに発展するのです。


 それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。 1:4これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。


こういう経験を経ない論理での有神論や神学は、なにか本物ではないのではないかという気がいたします。


次の、1:5から2:2までは、面白い文の構造になっています。

「もし、〜ならば、〜」という条件文が6、7、8、9、10、2:1

なぜ、こんなにも、条件文がでてくるのだろうか。


1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。


1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。

1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。


1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。


1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。


2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。


2:2 この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。

自分の確信する信仰と、それとは相容れない考え方、信仰を想定して、平行しながら述べられている。

それとは相容れない考え方、信仰は 後ほど「反キリスト」(2:18、22、4:3)「偽預言者」(4:1)、「迷いの霊」(4:6)と呼ばれるものと思われます。


1:5  1:7  1:9  ヨハネ共同体の信条 

1:6  1:8  1:10 離反して行ったグループの信条(思想と行動)

2:1  2:2       手紙の目的


1:5  ヨハネ共同体の信条の1であります。

     神は光であって、その内に闇はない。


1:6  ヨハネ共同体から離反して行った人たちの信条(言動と行動)

     後ほど敵とまで見做される人たちは口頭では「神と交わりを持っている」と

     主張しているが、行動では、「暗闇の中を歩」んでいる。

     それは「嘘つき」であり、「真理をおこなってはいない」


1:7  ヨハネ共同体

     神が光の中におられるように、光の中に歩んでいる。

     それは、神と信徒の交わりを保っていることを意味する。

     イエスの血によって、すべての罪から清められる。


1:8  離反グループ

     「わたしたちには罪がない」と主張

     自ら間違っている。真理はその人の中にない。


1:9  ヨハネ共同体

     自分たちには罪がある。

     しかし、罪を告白すれば、キリストが罪を赦し、不義からきよめて

     神と私たちは交わりを持っている。しい方であるから。こういう性質の

    神と私たちは交わりを持っている。


1:10 離反したグループ

     「自分は罪をおかしたことがない」と主張。

     それは、神を偽り者とすることで、キリストのことばは

     その中にとどまってはいない。


2:1  手紙の目的

     罪をおかさないようになるため。

     たとえ、罪を犯した場合でも、父なる神のもとに弁護者として

     キリストがいてくださる。


2:2  キリストは、罪をおかす全ての人のため、罪を赦し、取り除き、

     清める、神の前の捧げもの(旧約聖書の贖いの子羊)である。


 ヨハネ共同体と離反者の相違の一つに、罪についての認識の違いがあります。また、神と交わりをもっているという表明と行為についての評価の違いがあります。ヨハネ共同体は、反対にいるグループのことを「闇に歩んでいる」といっていますが、具体的には、どんなことかよく分かりません。この時期にはまだ、こまかい点ではっきりとはわからないものかもしれません。

 後々、エビオン派、アリウス派、グノーシス派、仮現派とよばれるような派が具体的にはっきり現われてくる前の、その初期のころのはなしかと思います。この手紙を読み進めて行くうちに、その実体がすこしずつわかるかもしれません。


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