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ヨハネ第1の手紙 5:6〜12 (2022年9月10日 Y. A. 兄 講話)

 学生時代に17世紀のイギリス、アメリカ史を教えてくださった先生に明石紀雄という名の先生がいました。17世紀は宗教改革後の英米にとって信仰が国を大きく動かす時期で面白く授業を聞いた覚えがあります。細かいことは忘れてしまいましたが、若く長めの髪が印象的で、洗練された爽やかなたたづまいで、非常に明瞭な授業でした。優れた先生であったらしく、私の卒業後に、津田塾大へ招かれ、その後筑波大に迎えられ、最終的には、筑波大学の名誉教授で終わっています。アメリカの歴史に関する著書も何冊か出されており、懐かしく思いますが、あまりその著書は読んでいません。

 「あかし」「あかし」と聞くと、土地の「明石」とこの「明石紀雄」先生を思い起こしてしまいます。皆さんは、「あかし」と聞くと何を思い浮かべますか。


 実は、今日取り上げる聖書箇所には、「あかし」が出てまいります。

5章6節から12節の中には、「あかし」という語が頻出します。9箇所あります。無論、地名でも人名でもありません。漢字で書けば、証明の「証」ということになります。


普通の日本の社会において、「あかし」を使う場合を考えますと、


① 「私はそのことに関わっていません」:(身のあかしを立てる)身の潔白の証明

② 「この子は私たちの愛のあかしです」:象徴、具体的な証拠

③ 「合格は、日々の努力をあかしするものだ」:当然の結果を導く前提条件となるもの

④ 「AのブドウとBのブドウは同じ品種改良の結果できたものです。DNA鑑定がそのあかしです」:鑑定結果の同一の証明 

⑤ 「最近ブラックホールの写真が撮れたそうですね」「ああブラックホールそのものではなくてその周りに輝くガスのようなものが撮れたんですよ」「これはアインシュタインの一般相対性理論が架空のものでなく、事実だとういうあかしになっています。」:科学的証明 客観的証明


などなど、思いつくものをあげてみました。


ヨハネの第1の手紙 5:6〜12で用いられる「あかし」という語は、今例にあげた従来の用法とは、少し違うようです。


ここで、聖書を見てみましょう。「あかし」という言葉に注目してみてください。


6 このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血によって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。 7 あかしするものが三つあります。 8 御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。 9 もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。 10 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。 11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。 12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。


 ここで使われている「あかし」とは、「証明」と言い換えることができますが、従来私たちが日常生活で使う意味より、少しちがっています。


① 身の潔白の証明

② 象徴、具体的な証拠

③ 当然の結果を導く前提条件となるもの

④ 鑑定結果の同一の証明 

⑤ 科学的証明 客観的証明


とは、違いますね。ここで使われる「あかし」とは、皆さんは、なんだと思いますか。


そうですね、全て神さまと関わって使われています。こんな意味合いででは、日本の日常生活では使わないかと思います。どうでしょうか。

いわば、信仰的な、信条的な用語として用いています。あかしが信仰の重要な要素になっています。そういうわけで、日本のキリスト教会でよく使われる熟語としてよく耳にする言葉です。「〇〇姉妹、おあかしお願いします。」とか「それでは、ここで〇〇兄弟にあかしをしていただきます。」といったように使われています。特に神さまから与えられた恵の体験を語ることを求められます。


 しかしながら、神さまの恵みの体験に「あかし」を限定してしまうと、聖書における「あかし」とは、随分違うのではないかと思われます。それは、ヨハネによる福音書に出てくるイエス・キリストのご自身の言葉の使い方を見れば、今日の「あかし」の意味がよりはっきりしてくるのではないでしょうか。


 ヨハネによる福音書5:31−47にイエス・キリストの使われる「あかし」という語が出てきます。


5:31~ もし、わたしが自分自身についてあかしをするならば、わたしのあかしはほんとうで はない。 わたしについてあかしをするかたはほかにあり、 そして、その人がするあかしがほんとうであることを、わたしは知っている。あなたがたはヨハネのもとへ人をつかわしたが、そのとき彼は真理についてあかしをした。わたしは人からあかしを受けないが、このことを言うのは、あなたがたが救われるためである。ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。また、わたしをつかわされた父も、ご自分でわたしについてあかしをされた。あなたがたは、まだそのみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない。また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。わたしは人からの誉を受けることはしない。しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。


この箇所の解説については、私市先生の『改訂版ヨハネ福音書講話と注釈 上巻』のp.495〜512に詳しく解説されています。


 他の人を信仰に導こうとしてする、個人的体験、歴史的な偉業、聖書知識、他者から受ける評価を用いることは、必ずしも、聖書でいう「あかし」とは区別されるべきかと思います。もちろん、信仰は生きた神さまとの交わりから生じるので、個人的な体験は当然生まれてきます。しかし、聖書でいう「あかし」とは人間側から生じる内在的なものというより、外在的なもの、神ご自身が、私を超えて、いわば、外側からくるものと言えます。


8 御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。


 これを言い換えると、聖霊と洗礼と十字架。これが「あかし」の外在的なもの、神ご自身が、私を超えて、私たちに与えられるものだと思います。

 時々、私には、特別際立った信仰体験がないことに自分の弱さを感じることがあります。もっと霊能的な体験があれば、神秘的な体験があれば、力強いクリスチャンになれるのに、素晴らしい「あかし」ができるのに、と思ったりします。しかし、


9 御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。 10 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。


11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。


 という今日の箇所を読みますと、霊能的な体験があれば、神秘的な体験、特別際立った信仰体験などより、もっと確かな神さま、御子イエス・キリスト、聖霊との交わりが、すでに外側から与えられていることを思い出させてくれます。

 信仰生活が困難であったヨハネ共同体の時代に、著者は、「あかし」の本来的な意味をこの文章を通して伝えたかったのだと思います。


 ここで、視点を少し変えてみたいと思います。それは、外側からの「あかし」に呼応するように、内側からの、人間側の「あかし」もあるという視点です。散々外側を強調してきて、急に内側の話をするなど、今までの話と矛盾するとお怒りになるかもしれませんね。


 そこには、私の長年の疑問が関係しているのです。キリスト教史の中で、なぜ、困難な状況に耐えることができたのかが、わたしにとって一つの疑問でした。その答えが、内側からの、人間側の「あかし」ではないかと考えるわけです。

 絶対的な神さまからの「あかし」の支えられて、そのことを表明することを、同じ語

で「あかし」と表したりします。絶対的な神さまからの「あかし」を「あかしA」とすると人間側の「あかし」は「あかしB」となります。「あかしB」の言語的な意味合いを探ってみましょう。


 「あかしする」はギリシャ語動詞マルチュレオーという言葉で、名詞はマルチュリアとなります。このマルチュリア「あかし」は殉教という意味を持ってきます。英語ではmartyrdomといい、この語から派生しています。なぜ、「あかしする」ことが、殉教につながるのか。禁教令時代のキリシタンやカタコンベに隠れて礼拝を守ったローマのクリスチャンをイメージすると、よくわかると思います。「あかしする」とは、神、キリスト、聖霊との交わりを表明することであり、自らを「神の子」と告白することでもあります。その信仰告白が、時代の権力者にそぐわないとき、信仰告白は命がけのものとなります。時に、「あかし=信仰告白」が命がけで「殉教」も辞さないことが繋がってきます。

 それで、「あかし=信仰告白」で「殉教」と結びつくわけです。その死をもって神の約束を守るということから、「あかし」のラテン語訳 testimoniumという「遺言」「契約」を意味する語が出てくるのです。これは、英語 New Testament, Old Testament 新約聖書、旧約聖書につながってきます。


 このように、聖書で使われる「あかし」には、本来日本語の意味にない、

①証明 ②信仰告白 ③殉教 ④契約 ⑤遺言という意味合いが付随してきます。 


「あかし」という言葉を使う時には、絶対的な神様からの「あかしA」と人間側の「あかしB」を考える必要があるように思えます。


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