最近は、手紙を書く機会がぐっと減ってきました。簡単な連絡などは、eメールやLineですることが多くなってきました。全く短い文で、時には、親指を立てた絵文字で、「いいね」や「了解」を示すこともあります。eメールで長い文を若い人に送ると「おじさん文」として避けられることもあるようです。送付元の年配の丁寧な配慮に満ちたひとまとまりの文章も、若い人にはやたら長い面倒な文に見えるようです。短い文や絵文字で意思疎通できる便利な時代になってきたともいえるでしょう。
私には、大阪に90を超える大叔母がいて、時々手紙をやり取りいたしますが、長年銀行に勤め、その後独身のまま、お姉さんと二人暮らしでしたが、今は独りになられましたが、未だ頭もはっきりしていて、文章にユーモアがあり、自分のことも客観視でき、年取った様子やきかなくなった体など面白く語ることのできる方です。手紙のやり取りのあとに声が聞きたくて、電話をしたりしています。eメールの短い文や絵文字では捉えられない心の交流や息遣いが感じられて、潤いを感じるひとときといつも感じています。
ヨハネの手紙も今の若い人にとっては、「もっと短くできるのに」「絵文字にすればいいのに」と思うかもしれません。実際、もし、ヨハネの第1の手紙の著者が、現代の日本に住んでいたら、表現方法はずいぶん変わっていたかもしれません。繰り返しの多いこの手紙など、読みづらい文章例としてととりあげられ、短く要約されていたかもしれませんね。
おおよそ手紙文らしくなく始まった文ですが、最後も手紙文らしくなく終わるように思えます。「寒さ厳しい折から、お身体にお気をつけて、お過ごし下さい」や「またお目にかかる日を楽しみにしています」などの形式上の挨拶もなく、「気をつけて、偶像を避けなさい」という命令形で終わる異例な文末で締めくくっています。しかし、ここには、手紙文では収まりきれない、著者の生き生きした体験に満ちたメッセージが語られています。心ときめくような語り口で親しく、それこそ年長者の配慮に満ちた息遣いを感じることができるように私には思えます。
ヨハネの第1の手紙の著者は、小アジアに移って行ったらしいヨハネ共同体の兄弟たちに向けて、信仰の本質を伝えるのに、それに反する人たちのことをとらえ、対比することによって私たち信ずるものに与えられている特別な立場を明らかにしようとしています。手紙を書いた目的は、この「終わり」の時の緊急時にあって、惑わされず、父と御子イエス・キリストと聖霊の交わりの中に生きることを求めています。
ここの箇所を、キーワードに従って、トピックを分けて考えてみたい。
1 私たちの立場:永遠の命を持っている
(このことを悟らせることが著者が文書を書いた目的の一つ)
2 私たちの願い(祈り):御旨に従うこと
3 罪と死の問題
4 私たちの知っていること
5 最後の警告
1 私たちの立場:永遠の命を持っている
5:13「これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである。」
永遠の命というとわかりにくいので、言い換えると、命の交流に永続性があるということ。つまり、父なる神、子なるキリスト、聖霊との交わり(コイノニア)がいつもあること。
永遠のいのち: 1:2, 2:25, 3:15, 5:11, 13, 20
1: 2 この永遠のいのちは父と共にいましたが、今や私たちに現れたものである。
5:11 神が永遠のいのちを私たちに賜り、かつ、その命が御子のうちにあるということである。
ヨハネ17:3
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
ヨハネ20:13
しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。
2 私たちの願い(祈り)
祈りは神さまとの交わりの一つの形
神さまは人の心の奥底までご存知であるので、何も言わなくてもいいと考えるかもしれませんが、み子イエス・キリストご自身がいかなる時でも(5千人の給食、ラザロの復活など)父なる神に祈りを通して交わっておられた。祈りは永遠の命を持つ私たちにとって大切なもの。ここでは、なにごとも求めることととりなしが書かれています。
① なんでも=御旨に叶うこと
② 兄弟、仲間の罪への赦し・とりなし(赦される罪)
5:14 「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。」
5:15 そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。
ヨハネ15:7
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
cf.マルコ11:24, マタイ7:7 ,21:22
5:16 もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求
めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。
赦される罪? 過失、怒り、意図しない罪過、迷惑行為・・・
3 罪と死(ヨハネ第1の手紙全体から捉え直す必要がある)
5:16 もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない。
ここは、非常にわかりにくいです。5:18では「信仰者は罪を犯さない」(3:6 すべて彼におる者は、罪を犯さない、3:9 神から生まれた者であるから罪を犯すことができない)と断言していますが、ヨハネ共同体のなかでは「死に至らない罪を犯している」現実があります。そして赦しと、とりなしの願い(祈り)がささげられています。また、手紙のはじめの方には、罪の問題が多く取り上げられています。
1:7, 8, 9, 10 2:1, 2, 12, 3:4, 5, 6, 8, 9
罪の現実、御子イエスの罪を赦すあがないの血、告白、真実な神、助け主、
義なるイエス・キリスト、兄弟を憎む者、世を愛する者、肉の欲。目の欲、
持ち物の誇り、偽り者、不法を行う者
赦される罪と赦されざる罪がある。 どう理解したらいいのでしょう。
赦される罪? 同信の兄弟に対する過失、怒り、意図しない罪過、迷惑行為・・・
死に至る罪とは : とりなしの祈りを必要としない究極の違法行為
cf. 死に至る病:キルケゴール(デンマークの哲学者)「絶望」
悪しき者、偶像に惑わされて犯したもので徹底的に信仰に反する性質のもの?
ヨハネ第1の手紙に出てくる反キリスト、偽教師、偽預言者などヨハネ共同体から出て行った人たちの教え
異端とされる本来的な信仰を否定することか
2:19 私たちから出て行った(属さない者)
2:22「偽りものとは・・・イエスのキリストであることを否定する者ではないか」
24とどまることをしなかった者 26あなた方を惑わす者
4:3 イエスを告白しない霊、反キリストの霊6迷いの霊
マルコ3:29 聖霊を冒涜する罪
5:18 すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。
この罪の問題とキリストのあがないと信じる私たちの現実の関係は、どのように捉えたらいいでしょうか。
3:1〜7が大きなカギとなると思います。
1 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。
2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
3 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
4 罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。
5 あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。
6 御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。
7 子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。
この問題を考えるときに、2つの時制(テンス)ということを取り上げる必要があるかと思います。クリスチャンには2つの時間が流れています。「すでに」という時間と「いまだ」という時間です。
「すでに」キリストの救いは完成し、罪の赦しは実現したのです。しかし、「いまだ」キリストの最終的な終末は来ていないため、このことが具体的に現実となるのは、まだ保留されているのです。完全なものが、不完全なるものを飲み込む時が必ず来ます。その時こそがおぼろげではなく、顔と顔を合わせてはっきりと神と出会う時となる。その時まで、この肉体をまとって、揺るぎなく、キリストの弟子、神との交わり、兄弟愛、コイノニアを守って行きたく思います。
キリストご自身が私たちの交わり(コイノニア)を守っていてくださると5:18に書かれています。
4 私たちの知っていること
ここに罪と悪魔と神の見守りと私たちの立場、世界の認識について書かれています。ここに描かれている認識は、私たちが過ごしている一般社会の常識とは全く違っています。ヒューマニスチックな世界観からは、こうした断言は容易にうけいれられないと思われます。戦争や人権侵害なども単なる善意の欠如か何かで、人為的な、政治的な方法で解消できるものと考えられ、経済制裁や外交交渉でなんとかなると考えられている節があります。本当にそうなのでしょうか。全てに陰謀論を持ち出すのは行き過ぎだとは思いますが、基本的な認識として、「全世界は悪しき者の配下にある」と考えて生きて行くことが、 惑わし、欺瞞から免れるいい方法なのではないでしょうか。
5:18 すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。
3:8 罪を犯すものは悪魔から出たものである。悪魔は初めから罪を犯しているからである。
5:19 また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。
5:20 さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。
もう一つの基本的な認識として確信しておくべきことは、イエス・キリストにいるということとそこにある「永遠のいのち」ということかと思います。ここに描かれている認識もまた、私たちが過ごしている一般社会の常識には相いれません。
父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神の三位一体と交わることができる私たちは、現在生きている時もも死んだ後も、神と交流ができるコイノニアの中にあることをこの暗い世の中にあって、懐き続けることかと思います。闇の中に光は輝いるから私たちは失望することなく、絶望することもないのです。
5 最後の警告
5:21 子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。
2:27,28 その油が教えたようにあなた方は彼(イエス・キリスト)にとどまっていなさい
3:7 子たちよ 誰にも惑わされてはならない。
今後、何が起こってくるか分からない時代です。あのヨハネ第1の手紙の時代とあまり変わらないかもしれません。しかし、キリストにあって、希望は絶望に終わることがないことを知っている私たちは、ますます心定めて、キリストとの交わり、兄弟との交わりを固くしたいと思います。
5:13 これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである。
5:14 わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。
5:15 そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。
5:16 もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない。
5:17 不義はすべて、罪である。しかし、死に至ることのない罪もある。
5:18 すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。
5:19 また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。
5:20 さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。
5:21 子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。
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