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ヨハネ第1の手紙 5:1〜5 (2022年7月9日 Y. A. 兄 講話)

 ミニコンポが壊れてしまって随分経ちますが、今は音楽などは携帯電話 iPhone や iPad で聞くことがあります。音質もかなり良くなってきています。

 クラッシックなどに詳しい方なら承知のことであろうかと思いますが、一つの曲の中に は、同じテーマのメロディがなんども少し変化をつけて、出てまいります。バッハなどの曲にはこの同じメロディ、モチーフの繰り返しが良く出てきて、いつ までも聞くことができるような気もします。

聖書をクラッシックの曲に例えるのは適当かどうかわかりませんが、聖書も同じテーマ、モチーフが繰り返し出てきます。バッハは「音楽の父」と呼ばれていますが、教会の聖書のテーマ、モチーフが繰り返し出てくることに親しんでいたためかどうかはわかりませんが、彼の音楽にはテーマ、モチーフが繰り返し出てきます。そういうこと から、聖書をクラッシックの曲に例えるのは、あながち無理な連想ではないのではないかと思います。

聖書を読む際、クラッシックの楽曲を読むようにできれば、もっと豊かに聖書を受け止めることができるように思えます。聖書を読む際、単一のメロディのみを受け止めるだけでなく、ポリフォニー、複数で多様な要素を内に含んだ豊かな楽曲の様に受け止めることができれば、聖書解釈も説教も楽しいものになるのではないでしょうか。

さて、今日はヨハネの第1の手紙 5:1〜5を取り上げるわけですが、この箇所だけを 読んでみると、1節1節がまるで無関係な事柄が述べられて、論理が飛躍しているように見 えます。しかし、これは前回取り上げた聖書箇所の変奏曲の変奏、ヴァリエーション、同じ メロディ、モチーフの繰り返しです。4:7〜21とほとんど変わりません。

5:1 「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。」


神から「エク・トゥ・テウー」は、3:9, 10; 4:1, 2, 3, 4, 6, 7; 5:18, 19 に何度も出てくる言葉で一つのモチーフを作ることのできる言葉です。その特徴を上げていきますと、


1(罪を犯すことができない)2(義を行う=兄弟を愛する)3(イエスが肉体をとってこられたことを 告白)(イエスを告白する)4(あなたがたは世にある者〈彼〉に打ち勝つ) 5(著者の言うことを聞 く)6(霊の判別ができる)7(イエスが守ってくれる)8(全世界は悪しきものの配下にあることを知 っている)

神から「エク・トゥ・テウー」を含む聖句


3:9 (罪を犯すことができない)

すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。

3:10 (義を行う・兄弟を愛する)

神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。

4:1 (出自を問え)

愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。

4:2 (イエスが肉体をとってこられたことを告白)

あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体 をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、

4:3 (イエスを告白する)

イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。 ! 4:4 (あなたがたは世にある者〈彼〉に打ち勝つ)

子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。

4:6 (著者の言うことを聞く・霊の判別ができる)

しかし、わたしたちは神から出たものである。神を知っている者は、わたしたちの言うことを聞き、神から出ない者は、わたしたちの言うことを聞かない。これによって、わたしたちは、真理の霊と迷いの霊との区別を知るのである。

4:7 (愛すること)

愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。

5:18 (罪を犯さない・イエスが守ってくれる)

すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。

5:19 (全世界は悪しきものの配下にあることを知っている)

また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。



「すべて生んで下さったかた(神)を愛する者は、そのかた(神)から生れた者をも 愛するのである。」


これは、神の子どもとして生まれたクリスチャン兄弟ということになります。 同じ内容が 4:11, 12, 21 にも書かれています。

●「わたしたちも互いに愛し合うべきである。・・・互いに愛し合うなら、・・・神の愛がわたしたちのうちに全うされる」

●「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。 この戒めを、わたしたちは神から授かっている。」

4章では、一般的な愛というより、愛の対象として信仰上の兄弟があげられております。 そこでは、「兄弟愛」が中心だと思います。そしてそれは、クリスチャンへの「戒め」だと書かれています。わたしは、キリスト信仰において、兄弟愛がこれほど大切なものであるとは想像していませんでした。ヨハネ第1の手紙の著者は兄弟愛を戒め、3:10 では、義を行うことと同程度の価値を与えています。

社会一般では、キリスト教信仰といえば、「隣人愛」を思い浮かべると思いますが、この手紙を読む限りにおいては、「兄弟愛」の方が優って強調されています。

西欧における人間関係をラムダ型という人がいます。ラムダというのはギリシャ文字で漢字の入るの「入」(にゅう)に似た字です。三角テントを思い浮かべるのもいいかと思います。何が言いたいかというと、三角テントの下の一点がわたしだとすると、上の一点が神さまで、そこから下に降りたもう1点が別の人なわけです。わたしと別の人との繋がりが直接的ではなくて、初めに上に上がり、そこから下に降りてくるような関係の中に人間関係が成り立っているという人間観があります。ヨハネ第1の手紙の著者が述べている「兄弟愛」もこういったラムダ型の関係ではないかと思います。兄弟だけではなく、神さまを信じるということは、他の人に接するのは、このような形で関係していくのではないかと思っています。その際、神さまを前提としない直接的な関係でのみ、物事を進めていこうとするのは、よりどころが互いにしかないの で、どこまでいっても相対的なもので終わってしまうと感じます。肉親だから兄弟とい うのではない、別の人間関係があることを聖書は述べているのではないでしょうか。

マルコ3:31−35には、肉親、兄弟についてイエスさまが答えておられます。

31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 34 周りに座っている人々を見回して言われ た。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉 妹、また母なのだ。


5:2 神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。

5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。


 兄弟愛は神さまから与えられた「戒め」であり、神の子たちを愛していることの証 明でもあります。初めにこの 5:1〜5を読んだときは、1節1節がまるで無関係な事柄が述べられて、論理が飛躍しているように見えたのですが、神から生まれる こと----兄弟愛を実践すること----戒めは実は、一つのことであることがわかりました。 そしてそれは、難しいものではないということであります。

ここまでは、4章のモチーフの繰り返しです。

次の章句はそれまでのモチーフとは違って、勝利、勝つという新しいテーマが出てきます。

5:4 なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。

5:5 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。


なぜ、ここで勝利の問題が出てくるのでしょうか。

「なぜなら」という接続詞は、前文の理由、証拠を示している言葉ですが、前文は、


5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。


「戒めを守るのは難しくない」ということと、「世に勝つ」ということがどう結びつい ているのか、何かピンときません。皆さんはどう感じられますか。

わたしたちが「勝つ」という言葉を使う時には、戦い、競争を連想させます。一体何に戦い、競争を挑んでいるのでしょうか。


何との戦いか

① 戦争—ウクライナとロシアとの戦争(具体的な覇権争い)

② 選挙戦—政治・経済の勢力争い

③ 社会的対立(影響力・優位を巡っての争い)

④ 個人・心理的葛藤

⑤ 霊的な戦い(聖書に出てくる)


小坂忠というクリスチャンゴスペルシンガーがいました。残念ながらごく最近亡くなられました。その人の曲に「勝利者」というのがあります。


何が苦しめるのか

何が喜びを奪い去るのか

心の中にはいつでも

嵐のような戦いがある

勝利者はいつでも

苦しみ悩みながら

それでも前に向かう

君がつまずいた時

失望の波に 揉まれていた時

君は一人でいたんじゃない

君を支えていた 誰かがいた

勝利者はいつでも

傷つき悩みながら

それでも前に向かう

どんな力も 神の愛から

君を離すことなどできない

勝利者はいつでも

苦しみ悩みながら

それでも前に向かう

勝利者はいつでも

苦しみ悩みながら

それでも前に向かう


という内容の曲です。一度聞かれたらいいかと思います。

わたしたちの勝利には傷ついた救い主が、まず、おられて、私たちが悩み苦しむ時 私を支えてくださっているのです。わたしたちの勝利のポイントはこの救い主イエスにあります。


ヨハネ第1の手紙4:4

「子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。」

ヨハネ第1の手紙にある「世に勝つ信仰」「勝利」は著者にははっきり分かるような具体的なものがあったと思います。「世」で表されるのは、2:18「反キリスト」22「偽 りもの」4:1「偽預言者」6「迷いの霊」と呼ばれている人、グループ、それらの背後に 存在する霊的なものを指しているのではないでしょうか。


エペソ6:12

「私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」


すでに初代教会の時代に、信仰者の共同体に挑み、否定する力があり、それに対し、著者は神から生まれた者の兄弟愛や信仰を強調し共同体を励ましています。


5:1 すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。

5:2 神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。

5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。

5:4 なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。

5:5 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。


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