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交わり—ヨハネ第1の手紙1:3(2020年9月12日 Y. A. 兄 講話)

 コロナウィルス警戒の時期で、なかなか外に出かけることがありません。教会の礼拝に関しては、ネット礼拝ということで、Youtubeで参加しています。もう半年以上、教会堂へは行っていません。

 教会が「教え」だけを伝達する機関だとすれば、ネット礼拝、これだけでもいいかなとも思えますが、不思議なことに、なにか不足感が残ります。

 この月曜日に牧師夫妻がラインを用いて訪問してくれました。映像機能を用いての話し合いでしたので、顔をみながら双方でいろいろ、話し合うこと、祈り合うことができました。日頃の不足感は、こういうことの不足によるものかなとも、思いをはせました。

 説教は一方的で、教えられることは多いのですが、私は教会出席で、説教以外のいろいろな要素で励ましを受けていたのだと気づきました。ピアノの前奏や後奏、賛美や礼拝堂の生け花や子供たちの声や体の不自由な人の姿、礼拝後の自発的な個人的なカウンセリング、祈り、証し、一階での昼食、雑談、情報交換・・・礼拝メッセージでわからなかった点についての牧師の説明などなど。一方的なものでない、双方向のコミュニケーション。こういうこまごまとした事柄がなくなった今、心の中に空白となって、なにか足らない、不足感になっているように思います。

 みなさんは、いかがですか? たとえ日曜日に特定の教会に行っていなくても、説教、聖書の学び、教え以外に、もとめるものがあるのではないでしょうか。大きく言うと、「交わり」といえるものが不可欠であることが、今の時代の大きな問題になっているのではないかと思います。


 ヨハネの第1の手紙1:3に2回、1:6、1:7にも「交わり」という言葉がでてきます。これについては以前、交わりについて何かということを考えたことがあります。

「コイノニア」κοινωνίᾳ とは何かということばで考えました。新約聖書には19カ所に使われていますが、それを分類して行くと、

  ①交際(まじわり、ここから聖餐式という意味も出て来ています)

  ②与る−あずかる(祝福の恩恵に参与する)

  ③ほどこし(献金も含まれるか)

という意味に成ります。


 前回はこのように言葉の意味について、語句辞典(コンコルダンス)的にみましたが、今日は第1ヨハネの中で使われている中から、もうすこし考えてみたいと思います。すると、おもしろいことに気がつきます。


  1:3「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」

  1:6「神と交わり」

 

とありますように、交わりの基礎が私たち信徒のよき交流関係にあるのではなく、神さまをもとにしているということです。聖書の言う「交わり」コイノニア κοινωνίᾳ は神さまとのまじわりによる。それも、神さまの中に交わりがある。父と子と聖霊の交わりに私たち信じた者があずかるという形で交わりが成立しています。

 キリスト教は「まじわり」の宗教だといわれたりいたしますが、このまじわりは人間の好みによる趣味の同好会的なものではなく、その中心に神さまがおられ、その神さまがとても不思議な形で(三位一体と神学用語で言われています)交わりを持ち、その交わりの中に私たちも参与するような形になっています。神の国はただあなた方の中(交わりの中心)にあると、別の箇所にしるされていますが、神の交わりのなかに私たちがあづかるというところに神の国が実現するのです。そういういみで、交わり、コイノニアは信仰にとってとても重要です。

 ソーシャルディスタンス等という事態が現実の今日この頃にあって、意識的にキリストにある「交わり」をヨハネ第1の手紙から読むことが出来ました。

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