あけましておめでとうございます。キリスト教歴では、実は1月6日まではクリスマスシーズンです。エピファニー(顕現節)といってクリスマスをしめる日がクリスマスシーズンのおわりです。クリスマスがあけて、2021年がどのような年になるのか、これから注意深く見守っていく必要があるようです。
それでは、ヨハネの第一の手紙2:1以下の呼びかけについて 今日は考えていきたいとおもいます。ヨハネの第一の手紙2:1以降は 「呼びかけの言葉」から始まっています。
2: 1 わたしの子たちよ
7 愛する者たちよ
12 子たちよ
13 父たちよ
13 若者たちよ
14 子供たちよ
14 父たちよ
14 若者たちよ
18 子供たちよ
28 子たちよ
3: 2 愛する者たちよ
7 子たちよ
13 兄弟たちよ
18 子たちよ
21 愛する者たちよ
4: 1 愛する者たちよ
4 子たちよ
7 愛する者たちよ
5:21 子たちよ
2:1の「わたしの子たちよ」からはじまって、手紙の最後の結びの5:21「子たちよ」まで19カ所に呼びかけの言葉があります。
みなさんは、どんなときに呼びかけますか?おそらく、そう言う機会はなかなかないのではないでしょうか。Ladies and Gentlemen などのような、あまり日本人にはなじみのない、スピーチの冒頭か、まれに手紙で重要なさとしをするときに、1回くらいは使うかもしれませんね。旅に出る、就職で田舎から上京する娘にむかって、「娘よ、都会では人にだまされないように気をつけるんだよ。」「息子よ、いい友達を作れよ。」「困ったら、いつでも帰っておいで」とか。
さて、なぜ著者はこんなにも 呼びかけの言葉を発しているのでしょうか?この文書が「手紙」と呼ばれる理由はこんな表現によるのかもしれません。呼びかけの言葉によって、非常に親密な関係を築こうとしているかのようです。または、親密な関係を思い出させようとしているのかもしれません。
普通の論述文などでは、こんな呼びかけの語はでてきません。スピーチや手紙くらいしかでてこないでしょう。それゆえ、後日聖書を編集するときには、手紙として表題がつけられたのでしょう。同じ手紙文でも、ローマ人への手紙やコリント人への手紙等、「兄弟たちよ」が中心で、それも、このヨハネの第1の手紙みたいに頻繁ではない。「愛する者たちよ」「子供たちよ」も他の手紙に出てきますが、この手紙ほど数多くはない。まるで、はやし言葉の様に、ひとつひとつの句に注目させ、意味をもたせるかのように「呼びかけの言葉」がでてきます。たいてい、この言葉のあとに、「これらのことを書き送るのは・・・である」という具合に、強調する理由のことばがつづいています。呼びかけの言葉を丸でかこってみて下さい。その後の言葉、句が著者がとくに言いたかったことであります。
ヨハネ共同体の分かれて行った、おそらくパレスチナから小アジアに移って行った人々をおもいながら文章を綴ったものと思われます。いろいろな年齢層がいたグループ(子共たち、父たち、若者たち、兄弟たち)。全体的に言えば、「愛する者たち」にあててとなります。
ヨハネによる福音書の最後の晩餐の後、ユダが出て行ったあと、イエスは弟子たちにむかって「子たちよ」(テクニア)と呼びかけています(感極まった?)。これは、師がその弟子を呼ぶときに使った語で、独特です。ヨハネ福音書にはここの1カ所ですが、第1の手紙には9回も出てきます。著者と宛先の人たちとの間には、師と弟子との関係があったのかもしれません。年老いた、または経験ある熟練の先生が、より若い弟子たちに呼びかけている感じがします。
ローマ人への手紙の最後16章には、挨拶文として、ローマ教会の個人名がでてきます。フィベ、プリスカ、エパネト、マリヤ、アンデロニコ、ユニアス、アムプリアト、ウルバノ、スタキス、アペレ、アリストブロの家の人たち、ヘロデオン、ナルキソの家の主にある人たち などなど 具体的な名称をパウロは記録にのこしています。
なぜ、ヨハネ第1の手紙の著者は、具体的な名前を知っていたと思われるのに、よびかけでは、個人名を使わなかったのか。また、手紙の最後にパウロの様に名前を列記しなかったのか。手紙という形式で個人的な親密さを感じさせながら、特定の人物のみに当てはめるには、もう少し、普遍性のある内容として、この文をかいたからではないかと思われます。鈴木さんや佐藤さん山本さんなどと具体的な名前を書くと適用範囲が極めて限定されてしまいます。それが、このような呼びかけになったのではないでしょうか。
手紙という形式をもちいながら、個人を越えた、キリスト信徒のグループに広く当てはまる真理をのべるために書かれたようです。非常に意図的であるようですが、面白い事に読み返してみると、2:13と14には「父たちよ」「若者たちよ」と呼びかけて、同じ内容をくりかえしています。なぜ、ここにくりかえすのか不思議です。昔、この手紙を書き写すときに、間違って二度写してしまったのかとも思えますし、この手紙を書く時、著者が急ぎすぎて、二度同じ事を言ったのかとも感じられます。口述筆記した人がいて、どもった原著者のことばをそのまま書いたのかなと想像をふくらませると、著者の人間性を感じ、この手紙がより近いものに思えて来ます。
著者のいいたかったことは、呼びかけの後の強調文にあります。呼びかけの言葉を中心に、その後の文章をひとかたまりと考えて、大づかみにヨハネ共同体の、著者の強調したい点をとらえていくことが、よみかたのひとつであると思います。ひとくくりのパラグラフ(文節)として、考えていこうとおもいます。ひとつひとつ、次回以降みていきたいとおもっています。
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