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ヨハネ第1の手紙 2:28〜3:29 (2021年11月13日 Y. A. 兄 講話)

 コロナ禍にありながら、世界中が驚くほど、感染者数も激減し、疑い深い外国人は、数値を誤摩化しているのではないかとまで言っているそうです。数値を誤摩かすメリットなどないことを考えると、本当に減少しているのだと思います。少し人の行き来をみましても、通常に戻りつつあるのかなとも感じられる今日この頃です。

 しかし、このコロナは変異するもので、「新型コロナウイルスの感染状況について、内閣官房の「COVID-19AI・シミュレーションプロジェクト」に参加する名古屋工業大学の平田晃正教授は、人工知能=AIによる分析の結果、12月から再拡大し、来年1月中旬ごろに第6波のピークを迎えると予測し、警戒を呼びかけています。」

 いつ終息するのかわからないまま、いつも警告を受けているような状態ですね。ある意味こんな中でこそ、本当の世の終わりを考えるいいチャンスかもしれません。


 2章では終末に現れる反キリストがまだ、ヨハネ共同体を惑わす「偽教師たち」で、具体的には、「かつては一緒にいた人たち」であったが、核となる信仰告白に一致できないばかりか、それに反する教え(〈イエスがキリストであることを否定する〉、〈御父と御子を否認する〉)を教えるようになっていった、ある意味限られた局地的なグループのことを意味していました。

 3章においては、その反キリストをもっと広い視点からとらえられています。手紙の4:3には「反キリストの霊」とありますが、この3章ですでに霊的な視点からこの問題を取り上げています。そういう意味で、この手紙が地域限定ではなく、後々公同書簡として、公的に信仰者に大切なことを教える書簡として扱われていく意味がわかると思います。また、〈子たちよ〉〈愛する者たちよ〉と強く呼びかける言葉から、リーダーとしての指導を考えた、テモテ1・2、テトスと同じ様に牧会書簡とも呼べるのではないでしょうか。


 3:4以降を見ますと、Ⅰテサロニケ4章にあるパウロの勧めの言葉と変わりがありません。おそらく、パウロとヨハネ第1の手紙の著者には、当時のクリスチャンの共通した教えがあったに違いないと思われます。そういう意味でⅠテサロニケ4章を併せて読むといいかと思います。

 そのような共通するクリスチャンの教えのなかでも、ヨハネⅠに特徴的な文章の構造と言葉に気をつけたいと思います。

 3章は来臨のとき(主の来臨の約束Ⅱペテロ3:1〜)のことが、取り上げられ、今まで以上に、終末に生きるクリスチャンの生活について勧めの色合いが濃くでています。ここでも、二つのものの対比的表現の構造になっています。たとえば、

​3:1 神の子どもたち 3:2/3:8/3:10

2:29 神から生まれた 3:9

3:9 神の種がとどまっている

3:3 自分を清くする

3:6 罪を犯さない

3:6 キリストの内にとどまる






キリスト:罪を取り除くためにこられた

    :罪が全くない

    :悪魔のしわざを打ち壊す

​3:10 悪魔の子ども

3:8 悪魔から出たもの


3:4(不法):律法に逆らう

3:4 罪を犯す

3:6 罪の内に歩む

  :キリストを見ていない

   キリストを知らない

   義を行わない者

   兄弟を愛さない者


悪魔:初めから罪をおかしている 3:8

テキストを色付けて、その主張、文章構造が分かるようにしてみます。

黄色:勧め 青色:信徒の事実 緑色:キリストの事実 ピンク:反キリスト

赤色:悪魔の事実  網掛:理由づけ

第2章


2:28 そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。

 

キリストの現れるとき:パルーシア(再臨:未来の来臨)2:28と3:2 2カ所のみ

過去の出現(1:2,3:5,3:8,4:9)とは違う

            

「パルーシアはヨハネ文書ではここだけで、この未来の終末論の伝承がヨハネ学派の初期段階にあったことが推測される』(津村春英『「ヨハネの手紙一」の研究』p.89)

 

他の再臨に関する聖書箇所:

マタイ24:3, 27, 37, 39 Ⅰコリント15:23, 16:17 Ⅱコリント7:6, 7, 10:10 フィリピ1:26, 2:12 Ⅰテサロニケ2:19, 3:13, 4:15, 5:23 Ⅱテサロニケ2:1, 8, 9 ヤコブ5:7, 8 Ⅱペテロ1:16, 3:4, 12

携挙(ラプチャー):小説『レフトビハインド』

 

2:29 もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。


第3章


3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――

御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。

 

ヨハネ1:12「言葉(イエス・キリスト)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」

   14:20「かの日には、わたしが父の内におり、あたながたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」 

神の子:テクナ・テウ

 

世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

 

ヨハネ7:29 わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。

   8:19 あなたたちはわたしも、わたしの父も知らない 

  

イエスが当時の人々に理解されなかったように、弟子たちもまた父の子どもとしては理解されていない。  

 

3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

 

後の姿 キリストに似たものになる


  フィリピ3:21

「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」

  Ⅰコリント13:12

「今わたしたちは、鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。」

  Ⅱコリント3:18

「主と同じ姿に変えられる」:メタモルフーメタ → メタモルフォーゼ(変容、変身)

  山上でのイエスの変貌


 復活されたイエスさまを弟子たちも、外観からは認識できなかったように思える聖書箇所が多いです。トマスには指し抜かれた脇腹と手のくぎあとをお見せになったので、肉体的な痕跡ははっきりとあり、弟子たちと食事もされているので、その肉体的な実存する様子はわかりますが、もうひとつはっきりしません。復活後の姿は絵にはかけない種類の肉体かもしれません。黙示録には白い衣を着た人々がでてきます。復活の体については、Ⅰコリント15:35〜58に書かれています。〈天上の体〉〈朽ちないもの〉〈霊の体〉〈死なないもの〉を着るとあります。信じる者は無に帰するのではなく、準備された〈キリストに似た姿〉になるのです。細かいところは分かりませんが、将来の楽しみにしたいですね。

 

3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストがきよくあられるように、自分をきよくします

 

 ヨハネのこの箇所で分かりにくい言葉や抽象的に思える言葉ですが、Ⅰテサロニケ4:3

をみると別の表現でわかりやすくなっています。

 「神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み、各自、気をつけて自分の体を清く尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。」

 

3:4 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。


3:5 キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。


3:6 だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。


3:7 子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。

 

マタイ24:4

  (イエスの言葉)「人に惑わされないように気をつけなさい」

 

3:8 罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です悪魔は初めから罪を犯しているからです神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。


3:9 だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。


3:10 そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです


3:11 互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。

3:12 カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。

なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです

 

神の子としての兄弟愛 3:13〜20

 

3:13 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。


3:14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。


3:15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。


3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです

3:17 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。


3:18 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。


3:19 それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。


3:20 たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです

 

 これほど、兄弟愛を強調するのは、兄弟愛がキリスト教徒にとって、非常に重要なおしえであるからです。神がイエス・キリストを「わたしの愛する子(マタイ3:17他)」と呼ばれ、イエスもまた「わたしの父(マタイ11:27他)」と呼び、「わたしと父は一つです(ヨハネ10:30)」と仰せられました。次に大切なのは、イエス・キリストの父なる神が、わたしたちの〈父なる神〉になって下さったということです。(Ⅰヨハネ3:1)新約聖書では〈父なる神〉の概念は、特定の民族との関係をあらわすというよりは、イエス・キリストを長兄として、キリストを信じる者が兄弟姉妹となるという、個人的、また、共同体的な概念を意味しています。それゆえに、兄弟愛は意味を持つのです。コイノニアとはこの兄弟愛で結ばれた共同体を意味しているのです。

 逆にそれが、当時危機的な状況に追いつめられていたのではないかと想像させます。

マタイ24:12(イエスの言葉)「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」

 

3:21 愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、

3:22 また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。


3:23 神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。


3:24 神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。

 

ヨハネ17章20〜26 私市元宏『改訂版 ヨハネ福音書 講話と注釈 下巻』

「68章 一つになるために」 キリストの祈り

ここに講話があります。

■父と子と御霊のエクレシアpp.1303〜1319 がよいガイダンスになると思います。


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