top of page
  • admin

ヨハネ第1の手紙 2:1〜6 (2021年3月13日 Y. A. 兄 講話)

 3月も半ばとなり、年度末ということで通常なら、いろいろの変化が期待できるはずのころとなりました。今年は3月28日から4月3日が受難週だそうです。もう十分1年間受難で大変だったという人もいるかもしれません。


 前回、ヨハネの第一の手紙には、「呼びかけの言葉」が多くあり、2:1の「わたしの子たちよ」からはじまって、手紙の最後の結びの5:21「子たちよ」まで19カ所にあると申しました。また、著者のいいたかったことは、呼びかけの後の強調文にありますと付け加えました。

 さて、今日は「わたしの子たちよ」で 呼びかけられている2:1から6までについて見ていきたいと思います。


2:1〜6

 この段落、ひとくくりの文章に題名、小見出しをつけるとしたら、皆さんはどういうふうなものになさいますか。いろいろ考えることができると思います。


 

 2:1 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。

 2:2 この方こそ、私たちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。

 2:3 わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。

 2:4 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。

 2:5 しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。

 2:6 神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。


 

罪」という語は5回出て来ています。「神を知っている」、「神の内にいる」、「神の掟」という言葉はそれぞれ2回でてきています。その中で一度しか出て来ていませんが、新共同訳聖書では「弁護者」という語に注目して、「弁護者キリスト」という表題をつけています。


 キリスト教用語の中には、日本人に分かりにくい法的な言葉がよく出てきます。「契約」という考え方や、「贖い(新共同訳では「償う」2:2)」、「証し」するなどなど。2:1に出てくる「弁護者」という言葉も法的なもので、日本な風土では、あまり信仰結びつけられて考えることはないのではないでしょうか。


 ちょっと話がとびますが、コロナ禍にあって、日本では自死、自殺者が増えているそうです。今までも、交通事故の死者数よりも、自死者が多く、2020年は2万919人で11年ぶりの増加であるそうです。警視庁と厚生労働省は、「これまで10年連続で減少していたが、リーマン・ショック直後の2009年以来11年ぶりに増加に転じた。女性や若年層の増加が目立ち、新型コロナウィルスの感染拡大に伴う外出自粛や生活環境の変化が影響した怖れがある」と報じています。

  因みに、同時期の厚生労働省の発表によると、新型コロナウィルス感染症の感染者は、230,304例、死亡者は3,414名です。又、入院治療等を要する者は34,166名、退院又は療養解除となった者は191,451名となっています。

単純に死亡者数だけの比較では、問題の解決にはならないと思いますが、自殺者数の20,919名とコロナ感染死亡者数の3,414名を取り上げてみますと、コロナが原因でなくなる方の6倍以上の方々が自死という形で命を断っていることになります。

 自殺ということに関しては、世界保険機関の調査によると韓国が圧倒的に多く、次いでロシアとなっており、日本は3位となっています。これは、日常マスコミなどによって不安な気持ちにさせられるコロナウィルス以上に、大きな問題であると思います。


 自死する人は、ある意味非常に自分に忠実で正直な人かもしれません。まじめな人が多いようです。潔く自己を罰するため、自殺という選択をする場合もあるでしょう。他の人以上に自分に対する責めを感じる人なのかも知れません。自分を追いつめて、最後にたどり着くのでしょう。

 しかしながら、そういう人は、別の視点を取ることが出来なかった人とも考えられます。もう少し違った視点から自分を判断できれば、違った選択ができたかもしれないのです。荷ないきれない荷を担うことは、苦痛でしかないでしょう。


 担いきれない荷ということを、聖書のことばで言い換えると「罪」又は「罪の結果としての罰」だろうと思います。


 ヨハネの第1の手紙の発信者は「わたしの子たち」と呼びかけ、罪を犯さないようにと呼びかけるとともに、たとえ罪を犯したとしてもと付け加えています。この付け加えた、付加のことばは、荷ないきれない荷を担っている当事者にとっては、本当に力になることばであります。姦淫の場でとらえられた女に「もう、罪をおかしてはならない」ということばを告げた主イエスを彷彿させます。


 なぜ、無限に責めさいなまれるような罪から解放されるのか、その力はどこから来るのかは、弁護者イエスということに鍵があります。自分で自分を罰することがない世界、第三者で客観的で、しかも正しく絶対的権威をもった方が、わたしの存在の根底にイエスと肯定して下さるのです。

 「生きていいよ」むしろ「生きよ!」と勧めて下さる方がいる。歴史的な贖罪が弁護の背景にある。ファンタジーやフィクションではない現実的な解決方法を持っている方が、わたしの、罪を犯したもの、担いきれない荷をになった存在に、そばにたって弁護して下さるのです。


 このように、私たちに「自分をせめなくていいよ」「生きていいよ」「生きろ」「生きることをわたしにまかせよ」と呼びかける声があれば、どうでしょうか?

 2:1に出てくる「弁護者」という言葉も、ひらたく言えば、「とにかく、生きよ わたしがあなたのそばにいて、かならず助けるから」という言葉を実際の力を持って語りかける、そういう存在がいるということは、どんなに心強いことでしょうか。


 コロナ禍、東北大震災10年ということで、多くの人が死という問題や、担いきれない荷(自責の念)、自分では解決できない罪という問題など、考えるときが多く与えられた時期であるとおもいます。弁護者であるイエスということに目を向けたいと思います。


 ついでにですが、「弁護者(パラクレートス)」ということばと、対立するもの「告訴する者」について、すこしみてみましょう。ちょっと語源的な話をいたしますと、弁護者(パラクレートス)はパラ(そばに、からわらに)+クレートス(呼び出された)。つまり弁護者は訴えられている人の傍らに立って呼び出された人、もちろん助けるために という意味合いがあります。慣例的な訳語としては、「助け主」となっています。


 弁護する者にたいして、反対の立場に立つのは告発人でダイアボロスといいます。ダイア(の理由により)+バッロー(投げつける、打つ)訴える、告げ口をする、中傷する、偽の証しをするという意味です。


 罪を犯すものは、裁判にたつ被告のようなもので、2人の代理人によって責められ、弁護を受けています。パラクレートス と ダイアアボロスの間に立っているのです。


 ヨハネ第1の手紙では、意味合いまでは発展させてはいませんが、なお、後々ですが、パラクレートスは「聖霊」(ヨハネ14:16) と理解できます。

「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう」で使われている「助け主」と同じ語が使われています。

 又、反対語であるダイアアボロスは「悪魔」を意味するギリシャ語と同じに使われています。


 ヨハネ共同体の人たちは、弁護者(パラクレートス)がいることの強みを深く感じさせられたと思います。


 次に、この手紙の著者は、罪とその結果の負のスパイラルから抜け出すだけではなく、その後の生き方まで示しています。


 2:6 「イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません」


 これは、定型的な、倫理的、道徳的な生き方をしろということではないと思います。主イエスの生き方を聖書で学んでいくと、今までの既成概念、観念を遥かに越える人間関係や世界、社会との関係の切り結び方が豊富にでてきます。

 儒教やラビ・アキバのようなユダヤ教の賢者や世界のモラリストたちは、「人にしてもらいたくないことは、人にもするな」という発言があります。

 この何処の国でも通じる道徳の教訓と主イエスの「人にしてもらいたいことを、人にせよ」という言葉には大きな差、天地の差ともいえるものがあります。前者は抑制的で、ネガティブな動機をもとにしていますが、後者はもっと多様で創造的、建設的な提案、生き方が示されています。


 イエスの歩まれたように歩むクリスチャンの姿は、歴史を振り返ってみれば、本当に多様でパイオニアのようなものが多くみられます。最近では、中村哲さんの生き方もその一例でしょう。

 「イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません」という言葉は、キリストの力強い、助けをうけながら、それぞれが与えられた環境で、新たに発見、深化していくものだと思います。

 ヨハネ第1の手紙の発信人は「わたしの子たちよ」と呼びかけ、力強い助け手で義なるイエスを示しつつ、実際に困難な中にいきる人々に具体的な生きる道をも教えようとされたのです。たんなる言葉だけの呼びかけではなく、実質的に力となるパラクレートスがいつもともにいて働いて下さっていることを思い起こさせたのです。


閲覧数:21回0件のコメント

最新記事

すべて表示

ヨハネ第1の手紙 5:13〜21 (2022年11月12日 Y. A. 兄 講話)

最近は、手紙を書く機会がぐっと減ってきました。簡単な連絡などは、eメールやLineですることが多くなってきました。全く短い文で、時には、親指を立てた絵文字で、「いいね」や「了解」を示すこともあります。eメールで長い文を若い人に送ると「おじさん文」として避けられることもあるようです。送付元の年配の丁寧な配慮に満ちたひとまとまりの文章も、若い人にはやたら長い面倒な文に見えるようです。短い文や絵文字で意

ヨハネ第1の手紙 5:6〜12 (2022年9月10日 Y. A. 兄 講話)

学生時代に17世紀のイギリス、アメリカ史を教えてくださった先生に明石紀雄という名の先生がいました。17世紀は宗教改革後の英米にとって信仰が国を大きく動かす時期で面白く授業を聞いた覚えがあります。細かいことは忘れてしまいましたが、若く長めの髪が印象的で、洗練された爽やかなたたづまいで、非常に明瞭な授業でした。優れた先生であったらしく、私の卒業後に、津田塾大へ招かれ、その後筑波大に迎えられ、最終的には

ヨハネ第1の手紙 5:1〜5 (2022年7月9日 Y. A. 兄 講話)

ミニコンポが壊れてしまって随分経ちますが、今は音楽などは携帯電話 iPhone や iPad で聞くことがあります。音質もかなり良くなってきています。 クラッシックなどに詳しい方なら承知のことであろうかと思いますが、一つの曲の中に は、同じテーマのメロディがなんども少し変化をつけて、出てまいります。バッハなどの曲にはこの同じメロディ、モチーフの繰り返しが良く出てきて、いつ までも聞くことができるよ

bottom of page