7月になりました。後2週間もすると、オリンピックが始まります。あまり盛り上がりも感じることもなく、始まるのでしょう。途中から、みどころが出て来て盛り上がるのかも知れません。会場無観客、テレビ観戦中心ということになるのでしょうか。テレビという媒体で一挙に世界がつながり、一体感がうまれるのかもしれません。
ここで、少し変な想像をしてみましょう。もし、ヨハネによる第1の手紙が、映像化されて我々に、著者が語りかけてくるとしたらどうでしょう。視覚による情報が前面に出て、そこから意味を汲み取ろうとすることに集中すると思います。しかしながら、視覚による情報はあまりあてには出来ません。また音声によって感情をかき立てたとしても、あまり意味の深みにはいることはできないのではないかと思います。スポーツ観戦とは違うようです。
文字による伝達は、逡巡する時間や繰り返し見直す時間を与えてくれます。1度伝えられたことでも、スーッと耳にはいったものの、聞き逃してしまったことも、書かれた文章であれば、さかのぼって見て、とっかかりができます。
今日の箇所は、同じ内容が2度繰り返して出てくるような箇所です。短い手紙になぜこのようなくりかえしがなされるのか不思議です。初めて読んだときは、何か記述上の間違いがあって、こういうくりかえしになったのか、または、手紙の著者がどもってしまって、口述筆記した弟子が、そのままま繰り返して書いてしまったのかとも想像しました。
2:12 子たちよ。あなたがたにこれを書きおくるのは、御名のゆえに、あなたがたの多くの罪がゆるされたからである。
2:13 A 父たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである。
B 若者たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、悪しき者にうち勝ったからである。
2:14 子供たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが父を知ったからである。
A' 父たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである。
B' 若者たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが強い者であり、神の言があなたがたに宿り、そして、あなたがたが悪しき者にうち勝ったからである。
この箇所の翻訳を別の翻訳で見ると、その前までの文と違って、詩の形であらわされている(英語・ヘブライ語対訳聖書や英語・日本語対訳聖書)ものがありました。
ここの箇所は、手紙の散文的な文とは異なり、詩の形になったのはなぜでしょうか。もともと良く語られる、聞かされていることばで定式化したものかもしれません。聞く側のひとびとにもすぐにピンとくるものではなかったでしょうか。
よくテキストを見ると、「書く」という時制が違ったり、若者への呼びかけの二回目には、1回目にないことばがつけ加わっています。これは、著者のいい間違いではなく、意図的になされたことと判断できます。それでは、なぜこのことばは繰り返されているような文章構造になっているのでしょうか。
動詞「書きおくる」(グラフォ ヒュウミン:現在形)「書きおくった」(エグラファ ヒュウミン:アオリスト)を使い分けることにより、今とかつて(過去)のことを対照して述べているのかもしれません。著者と一緒にいたかつてそうであったように、今、著者と別れている現在もまた、同じ状態にあるということで、強調的に繰り返していると考えられます。また、「時制の変化そのものに意味があるというより修辞的表現であり、2:13の内容を2:14後半で漸進的に表現していると考えられる」(津村春英)との意見もあります。どちらにしても、レトリックを用いて、大切な点を再確認させているとみることもできましょう。
著者より年長の方には、「父たちよ」と呼びかけ、「初めからいますかたを知った」(イエスその方)というのです。ヨハネ共同体の一貫性をこのことばからも分かります。また、著者より年少の方には、「若者たちよ」と呼びかけ、「あなたがたが悪しき者にうち勝った」とあります。
「父たち」「若者たち」をまとめて「子供たち」と呼びかえ、「御名のゆえに罪がゆるされた」とも書かれているので、12節から14節までで、ヨハネ共同体の共通する経験、信条がここにあらわされています。
①先在のイエスを知っていること
②神のことばによる悪への勝利
③主イエスの名による罪のゆるし
これらは、繰り返しも辞さないほど重要なものであったと思われます。逆に言うと、悪と見なされたヨハネ共同体に対抗するグループ、個人はこういう経験、信条がなかったようです。悪とされる対抗者については、おいおいはっきりしていくことと思います。
2:12〜14では詩的な文でヨハネ共同体の信仰告白的な信条をのべたとも考えられます。
次に、ここから先の15〜17節は、それ以前とは、全く前の12〜14節とは違っています。急に、生活教訓的なものになっています。ローマ人への手紙も1〜11章までは信条、教義が中心ですが、12章からは信仰を適用する生活という構造と似ています。
2:15 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。
2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。
2:17 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。
ここには、「世」と「父の愛」とが対比されています。「世」は私たちがよく使う「世界」とか「世俗」とは違うニュアンスがあります。
聖書の基本概念である「世」は神に対立するものとしてとらえられています。聖書の人間観に関する言葉です。「肉」という言葉も、同様に、私たちがよく使う肉体という意味ももちろんありますが、自然のままの人間性、もろさ、不完全さ、有限性さなどを示しています。(サルクス)この世では感覚と欲望の支配から解放されないで、やがて朽ちてしまう一時的な存在としての肉、また、神に対立する支配力として捉えられます。
人は神の霊によって、支配されて、服すべき人間の人格全体であり、ここでは、それに反する者として「肉」がとりあげられています。
「肉の欲、目の欲、持ち物の誇り」は「神の御旨を行う(こと)」と対比して取り上げられています。単に道徳的な訓戒を列挙しているのではなく、神とともに生きることが、日常生活に適用された姿を示しています。ひとつひとつを守るべき目標とすべき規則というわけではありません。
信仰と生活との関係をとらえるのにいろいろな考え方があります。①両者を全く関係なく二元的に生きる、②信仰と生活との関係を密着させて細かく規則化していき、規則を守ることが信仰そのものと考える。例として、神に従うことと戒律(生活規範)を緊密に結びつけて生きている人にユダヤ人がいます。
ユダヤ教には守るべき規則613の戒律(ミツボット)があり、その適用に最新の注意を払っています。安息日には働いてはいけない。その聖書のことばに従うために、おおくの戒律を自らに課しています。火をつけることも働くことになるので、料理の煮炊きも安息日に入る前に火にかけておきます。エレベーターのボタンを押すことも、電気を使い、火をつけることと同じ様にとらえられ、安息日にはエルサレムのアパートのエレベーターなどはボタンに触らずにいても、各階順序よく動き続けるように前もって準備、設定をする。安息日に移動できる距離も決められています。
ともすれば、私たちのなかにも、信仰に生きるということで、このユダヤ人と同じ様に、戒律で自分をがんじがらめにすることを強調する場合があります。主イエスはパリサイ人との対話の中で本当に「神の御旨を行う(こと)」を示しています。この主の生き方を知らないで、外面的な項目、戒律を守ることが、信仰だと勘違いしない様に注意しなければなりません。①のように信仰は倫理とは関係ないというのも極端であり、②のように信仰を道徳の項目の遵守と考えるのももう一つの極端です。①でもなく②でもない、信仰と生活との結びつき方をヨハネ共同体は、ここで勧めているのではないかと思います。
今後のヨハネの手紙の学びによって、おそらく、ヨハネ共同体から離れていったグループや個人はこの点で、ずれていったようすが明らかにされていくのであると思います。そう言う意味で次の18〜27節にヨハネ共同体が敵として考えた考え方、具体的なグループが明らかになっていきます。
17節の「永遠に生きる者」としての信仰者は、過ぎ去っていく一時的な世と世にある欲との関係を手紙の著者は対比させているのです。
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