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ヨハネ第1の手紙 4:13〜21 (2022年5月14日 Y. A. 兄 講話)

 ヨハネの第1の手紙は、ヨハネ福音書とは違って、主題について「論理的に展開するとうよりたたみかけるような語りかけをしながら強く訴えようとしている書物ではないか」と鈴木牧雄氏はその大森講座(『ヨハネとパウロ 新約神学の統一性に関する一考察』新教出版社)で述べていますが、確かに、「『ヨハネの手紙一』にはいくつかのテーマについて一貫した構想なしに述べられており、神学的な展開がみられないため、構造をしめすような区分をすることは適当ではない」かもしれません。


 論理を主とした論文ではなく、熱のこもった説教のように取り組むのが正しい取り組み方かと思えます。主イエスからヨハネおよびその関係の共同体が受け継いで来た信仰を、異なる立場の教えの出現に際し、大切なこととして、ことばが繰り返しや、重複することもいとわず、説いていく伝道者の牧会的言説ととらえていいと思います。


 4:13から21を読む時、とても不思議に思うことがあります。それは、「内にとどまる」(メノー)ということばです。メノーは、それまでヨハネ第1の手紙によく用いられていますが、4:16以降でてきません。

 cf. 2:6, 10, 24, 27, 28, 3:6, 8, 17, 24, 4:12, 13, 15, 16


4:13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。

4:15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります

4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます


 わたしたち(人)→神、神→わたしたち(人)順序が逆になって文章が続いています。これは、聖書の良く用いる構文でキアスムス構造というものですが、神と人が相互に「内にとどまる」(メノー)ということの強調です。

ふしぎな構図と思いませんか?頭に絵を描くとわたしたちと神の関係が、一方が他方の中に、また他方が一方こちらに内包されている。

 入れ子細工の人形がロシアにあります。マトリョーシカ。民族衣装を着た女の子の人形ですが、体が真ん中から上下にあけられる様になっていて、その中には、ひとまわり小さな同じ形の女の子の人形が出てくる構造になっています。普通の感覚でいくと、「内にとどまる」というと、こういうイメージになるかと思うのですが、このイメージではとらえきれないのが、ここの箇所かと思います。

 4:13から16にある、内包のあり方は、とても不思議です。これは、ヨハネによる福音書14章で「み父をみせて下さい」と弟子に請われた時に、答えたイエスのことばを思い起こさせます。


ヨハネ14:9〜10


9 「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。

10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。

11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」


 小林稔氏は「相互内在」ということばを使っています。父なる神さまとイエスさまとの関係をしめしているのですが、ヨハネ第一の手紙の4:13から16では、その関係がわたしたちクリスチャンにも適用されているのです。父とイエスの関係がよく分からなかった弟子たちに「わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じない」(ヨハネ14:11)


 イエスをキリストと告白する(4:2、3)時わたしたちには、「神は(わたしたちに)、御自分の霊を分け与えてくださいました」。その時から父とイエスとの相互関係の中にくみこまれているのです。

 そういう関係にある、「相互内在」しているわたしたちに4:17から21のことばがつづくのです。


4:17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。


 キリストが内在しているわたしたちは、おこがましく聞こえるかもしれませんが、マトリョーシカをわけてみたら、ちいさいマトリョーシカがいたように、わたしたちは小さなキリストともいえるのです。(カソース エケーノス:あの方のように)不遜なことでしょうか。これも、信じるべきことがらに属すと思います。だから、「愛がわたしたちの内に全うされている」と大胆に言えるのです。


 父とイエスとの相互関係、相互内在している関係が、わたしたち信じる者にも成立し、

神が私の中にいますとともに、わたしが神のなかにいるという不思議がなりたっているのです。ちち、みこ、みたまの三位一体の不思議な関係にわたしたちも招かれて、不思議の中に生きるようにされているのです。これは、三位一体が信仰の対象とおなじく、信ずべき事柄です。


 あなたはあなたであって、しかも、神を宿し、神に属している存在だということです。

この聖書箇所にある「内にとどまる」不思議さ、神の「愛」の神秘を思います。そういう存在にされた(受身)わたしたちは、4:17以降にあるとおりに生きることができるようにされているのです。


4:17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことが

できます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。

4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。

4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。

4:21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。


① 「終わりの時」(2:18)について: 「裁きの日の確信」をもつことができます。言い換えると、2:28に「御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません

② おそれについて:完全な愛は恐れを締め出します

③ 兄弟愛について:神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです


 このような状態は、ヨハネの手紙の3:2(愛する人たち、私たちは今すでに神の子どもですが、私たちがどのようになるかは、まだ現されていません。しかし、そのことが現されるとき、私たちが神に似たものとなることは知っています。神をありのままに見るからです。)にあるように、将来的な、未来の出来事のようですが、すでにキリストを内在させていただいたクリスチャンにははじまっていることとして考えればいいと思うのです。いわば、天国の前味を、不完全ではありますが、今わたしたちにもいただいているのです。ですから、どんな状況でも失望することがないのです。恥じなく、怖れなく、神とわたしたちは相互内在している状態をヨハネの第1の手紙の著者は、離れた所にいるヨハネ共同体の人たちに、またわたしたちに思い起こさせようとしているのです。 


4:13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。

4:14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。

4:15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。

4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

4:17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。

4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。

4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。

4:21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。


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