ガラテヤ書1章 (2023年1月14日 Y. A. 兄 感話)
- admin
- 2023年1月17日
- 読了時間: 7分
新年あけましておめでとうございます。年が改まったばかりですが、戦争もまだ継続中で今後どのような形で収束していくのかがわかりません。誰の得にもならず、貧困が待ち受けているのがはっきりしている中で、どうして戦争を終えることができないのか不思議でたまりません。毎日神さまにこの戦争が一刻も早く終わり、神さまの御旨がこの地に実現されますようにと祈っております。為政者の上にも神さまの御心がわかり、畏れる心が与えられるようにと願っています。
考えてみると、私はキリスト教信仰は戦争なき平和と当たり前のように結びつけておりました。しかし、信仰とは別にいつも戦争という現実が存在していたことは歴史的な事実です。急に始まったことではないことを改めて思いめぐらしています。戦禍にあるキリスト教信仰というものを欧米社会は見続けてきたのだろうと思います。そんな中で、神さまの変わりない愛や見まもり、兄弟たちとの信仰の交わりが現実的な力になっているのだと今更ながら思います。
第2次世界大戦終結直前のドイツに告白教会のディトリッヒ・ボンヘッファーという神学者がいました。ナチ政権を批判し、地下抵抗運動に加わります。ナチに抵抗してヒットラーの暗殺まで考えた人です。「何時殺すなかれ」というキリスト教倫理を犯してまでそう計画したのには、狂人の運転する自動車から一般人を救い出すために、その暴走する車のハンドルを奪い取るような危機的な状況と判断したことからくる計画でした。ユダヤ人の亡命を援助したことで捕られて、その後ヒットラーの暗殺計画は発覚し、ドイツ降伏の直前の1945年4月9日に処刑されました。
戦時下にあって、婚約者のマリアに宛てた賛美歌があります。『賛美歌21』の469番「よき力にわれかこまれ」は獄中にあって、処刑の約4ヶ月前に婚約者に送った詩に基づいています。
善き力に われかこまれ 讃美歌歌詞
1 善き力に われかこまれ、
守りなぐさめられて、
世の悩み 共にわかち、
新しい日を望もう。
2 過ぎた日々の 悩み重く
なお、のしかかるときも、
さわぎ立つ 心しずめ、
みむねにしたがいゆく。
3 たとい主から 差し出される
杯は苦くても、
恐れず、感謝をこめて、
愛する手から受けよう。
4 輝かせよ、主のともし火、
われらの闇の中に。
望みを主の手にゆだね、
来たるべき朝を待とう。
5 善き力に 守られつつ、
来たるべき時を待とう。
夜も朝もいつも神は
われらと共にいます。
私たちは、今ウクライナにいるわけでもなく、戦火にみまわれているわけでもありません。しかしながら、インターネットの発達した世界に生きて、同時性の地上に息をしています。そういう点で戦禍にある人々との共感や祈りが身近なものとなってきます。危機の中にあって私は何ができるだろうか。祈ることはもちろんですが、ボンヘッファーが最後もで希望を失わず、神さまを信じ、祈り心を持って賛美したごとく、主の御手の働きを大きく期待することではないかと思います。味わいながら、賛美してみましょう。
ガラテア書1章
今回からは、聖書を読んだ後の分かち合いが中心となりました。ガラテア書1章を見てみてみますとヨハネ第1の手紙の背景と共通するものがあります。
初代教会の頃に既に、福音に反する教えがなされ、キリストの実在や神性を疑い、主イエス・キリストの成し遂げられた救いのみわざを無効にしかねない教えで、信仰者の確信を揺らがそうと積極的に活動する人々がいました。
ヨハネ第1の手紙の中では、反キリスト、迷いの霊、偽預言者、偽教師などと呼ばれ、注意が促されています。このひとたちはヨハネ共同体から離れていった、ギリシャ哲学やグノーシスと呼ばれる思想に影響されたと思われます。
ガラテア書で出てくるキリストの福音に反する運動は、ギリシャ側から来たものではなく、ユダヤ教から来たものと考えられます。福音は外からも内からも危機に瀕していました。
ヨハネ共同体の著者は、主にギリシャ思想に対し、ガラテア書はパウロがユダヤ教に対し、福音の真実を守り、揺るがない信仰の確立のために文書にて、信徒に伝えています。
著者の性格の違いも、2つの手紙を見ると面白く思います。パウロは感情の激しい人らしく、使う用語も、考え見れば、過激です。1:8、9には「呪われるべきである」3:1には「物分かりの悪い」5:12「扇動者ども」「自ら不具になるがよかろう」6:12「肉において見えを飾ろうとする者たち」などなど、普通今日の教会ではあまり聞かれない言葉遣いです。日本語に翻訳された聖書では公堂で朗読するために、やや控えめな表現になっています。しかし、現実は直接的な表現です。3:1などは「馬鹿」と言っているようなものだし、5:12などは「去勢する」などとびっくりするような表現を使っています。フランシスコ会訳聖書では、「あなたがたを扇動する者たちは、自ら去勢してしまえばよい
のです」と忠実に訳しています。(割礼ばかり言いつのるなら、包皮だけでなく本体の男根まで切断してしまえばどうか)1:8、9などは「呪われよ」(アナテマイ・エスト)と訳せば、もっとパウロの激しさがわかるような気がいたします。ヨハネ共同体の著者なら使わなかったであろう表現が出て来ています。福音からそれさせる偽教師たちに対する姿勢は同じだったと思いますが。
ここで、そういう感情がこもった表現を少し原語で一緒に味ってみたいと思います。普通、新約聖書ギリシャ語の読み方は学者によって、平板で、抑揚のない、あまり感情の現れないものですが、私の見つけたものは、神田盾夫さんのものです。私はこの人の発音を聞くと、パウロはおそらくこんな風に感情を込めて手紙を書いていたのだろうと想像することができます。
神田さんはその祖父が幕末の蘭学者神田孝平であり、父親は神田乃武(ないぶ)といい、日本の英語学、英語の教授の歴史では忘れることのできない大正期の英学者です。この人は内村鑑三、新島襄のいたアマースト大学を出て、クリスチャンとなっています。日本に帰って来て、大学でギリシャ語、ラテン語を教えています。 Kanda Crown Englishという英語教科書の元を考えてとしても有名です。私は三省堂のJunior Crown (English)という教科書を使っていましたが、それは神田の流れを組むものです。神田盾夫はそういう学者の家系の人でした。内村鑑三門下で聖書学・西洋古典学を学ぶことを決心し、イギリスのオックスフォード、ドイツのハイデルベルク大学でそれを専攻しました。そこでの本格的な学びによるのかと思いますが、ギリシャ語の朗読方が他の学者先生と違い、生きた人間の、感情の伴った表現としてなされていますので、あたかもパウロその人が語っているかのように私には感じられます。
それでは、前置きはここまでとして、ガラテヤ書の1章を聞いてみましょう。
パウロは人間の承認によって使徒となったわけではなく、パウロが使徒であることは神さまご自身の召命によるのだと、自己の使徒性を述べています。なぜ、ここまで言わなくてもならないのか。ユダヤ教から入って来た人々が、パウロの言うことが神由来のものでないは、彼が使徒ではないからだと人身攻撃から始め、パウロの言う福音の真実性までも否定するに至ったからです。パウロの言う福音の真実性を示すためにも、パウロの使徒性を強調する必要があったのです。
日本では自分の言説が正しいことを言うために自己の権威の正統性を言いつのることはあまりありません。パウロは福音の真実が否定されないために、敵の狡猾な論法から、逃れるとともに正しく福音が受け入れられるためにこういう1:1「ひとからでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた」と記しているのです。
福音は誰か偉い先生や権力者のうしろだてを必要としていません。神からの、いわばじかづけの啓示。召命が必要だったのです。このことは、イエスと行動をともにしたエルサレムの使徒たちも同様なので、パウロのことも認めたのです。後々キリスト教会の土台を作るほどの影響力を、この生前イエスと交渉も持っていないパウロが果たすのは、不思議な気がいたします。
Comments