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ガラテヤ書5章 (2023年9月16日 Y. A. 兄 感話)

 久しぶりに京都に行ってきました。まだ大学は夏休みでしたが、ちょっと寄ってみました。大学の校舎「明徳館」の入り口に「真理はあなたを自由にする」(ヨハネ8:32)VERITAS LIBERABIT VOS と書かれたプレートが掲げられています。同じ聖句が国会図書館に掲げられているそうですが、その場合は表面的な意味で、西欧で知られる少しかっこいい言葉として採用されたのでしょう。この言葉が出てくる文脈を見てみましょう。

   

ヨハネ8章

   

31 イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉にうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。

32 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。

33 そこで、彼らはイエスに言った、「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」。

34 イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。

35 そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。

36 だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである


クリスチャンなら、ここで使われている真理とは、抽象名詞ではなく、イエス・キリストという人格的な神を意味している事をご存知でしょう。


ヨハネ14章


6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。

  

 真理と自由とイエス・キリストはセットになって考えられています。


 幕末(1864年)に国禁を犯して脱国し、アメリカに渡った新島襄はいち早くこのことに気づいた人で、自由教育を帰国後キリスト教主義をベースに学校を作りました。

 大学の生協の購買部に新島襄の伝記を基にして、マンガ化され、さらに英訳されたものがありました。京都旅行の土産に買ってきました。その頃のアメリカは自由を制限されていた国から、信仰の自由を求めて太平洋を渡ってきた人々がおり、クリスチャン精神に満ち、聖書の教えに基づく共和国の建設を目指していました。ピューリタンと呼ばれる人たちです。新島が出会った人々は、そういう先祖たちの生き生きとした自由の精神、デモクラシーの精神に充ち満ちていました。いい時代の出会いだったと思います。そして、


 真理と自由とイエス・キリストはセットになっておる事を知り、教育の分野で日本を造り変ようとしたわけです。


 さて、今日はガラテヤ書の5章ですが、おおきくいってここには、「キリスト者の自由」がテーマとして取り上げられています。

 前回のガラテヤ4章には、奴隷と自由をめぐって、譬えとしてハガルとサラの話が出てきました。旧約聖書理解が必要とされるところです。アブラハムの子供をめぐってその母たちの立場を取り上げ、ハガルを奴隷の女としてとサラを自由な女として描いています。この立場の差は大きく、その後の民族の祝福や約束と関わってきます。そこで、自由という言葉が頻繁に出てきます。その自由をめぐって、ガラテヤ書の5章に入っていくわけです。


 ここには、自由を阻害するもの、人を奴隷のくびきにつなぐものとして、律法が取り上げられています。律法そのものというより、律法主義といったほうがいいと思います。パウロや弟子たちの福音を何か不十分なものとみなし、「イエス・キリストの救いは大切だが、それに加えて律法を守る事で救いが完成する」とでも言いたげな発言をする人たちが、ガラテヤ人の教会に入ってきたわけです。こういう風な追加、補充のような事柄は、律法主義に関わらず、後々現れてきます。「イエス・キリストだけじゃ足りない」「免罪符(贖ゆう券)が必要」「善行」「教会教理遵守」「奉仕」「日曜聖日絶対厳守」「十一献金」・・・いろいろな追加事項がさも救いを全うさせるかのように述べられたりするする姿がガラテア時代と変わらないかもしれません。


ガラテヤ書5章


5 わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。 6 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。


 律法主義者にとっては、「イエス・キリストだけで十分だ」というのは、「十字架のつまずき」にしか過ぎないのです。そういう人は、「動揺させている者」「煽動者ども」とここでは書かれています。そして、パウロはそういう人たちに対し、厳しい言葉で諌め、信仰者には

 

ガラテヤ書5章


13 兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。


そして、


16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。


というのです。


さらに、ここでは、「愛」「御霊」「肉の欲」「御霊の実」という言葉が出てきて、「キリスト者の自由」のテーマがさらに、具体的に展開されてきます。

15の「肉の欲」9の「御霊の実」については、別に取り上げるに足る内容を有しています。別の機会を設けなければ、時間と紙面が足りませんので、ここでは、クリスチャンに与えられた自由の、具体的な日常的な事柄として捉える事に限ろうと思います。

 ガラテヤ書5:13〜26については、私市先生の『使徒パウロの継承思想』pp.145

〜178に詳しく解説されていますので。この点について知りたい方は、そこをお読みください。


ガラテヤ書5:1

1 自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。


25 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。


 最後に、「キリスト者の自由」は聖霊の働きと深く関わっています。聖霊が働かれなければ、自由も真理も愛も信仰による義もクリスチャンの日常的な品性も完成しないのです。


私市先生の最新の著書『東アジアにおける日本の使命』の中(p.49)に「日本では、ほんらい〈個人〉の存在意識が希薄であった・・・日本では、〈自由な信仰の主体〉であるべき〈個人〉が育っていなかった」と日本の政教分離の章で述べておられますが、その通りだと思います。


 聖霊に満たされた真理と自由に生きるクリスチャンが今もなお求められる所以です。


 最後に、京都にいた時、出席していたかも賀茂教会の野本真也先生のチャペルでの奨励を参考に添付しておきます。師は2021年10月10日に召天されています。

「真理之囚人コソ真ニ自由ノ人」と題して奨励のメッセージを語っています。参考までに添付しておきます。



 ガラテヤ書5章をまとめると、

⑴ 真理と自由とイエス・キリストはセットになって考えられています。

⑵ キリスト者の自由は聖霊の働きによります。

⑶ クリスチャンの日々の行動は、聖霊によって生きる時に、〈実〉として実現して

  いきます。


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