ローマ書1章 について
ガラテヤ書に続いてローマ書を取りあげることになりました。
偶然ではなく、この二書は深く関係しています。
共通点は
・ 著者はパウロ。
・ 執筆年代が比較的近い。
(49年エルサレム会議後 ガラテヤ書:57年か58年頃
ローマ書:58年初頭のローマ訪問の直前の冬頃 両者はほぼ同時期か?)
・ 内容・背景
ユダヤ人のみならず異邦人の信徒も一緒にいる混交的な集団
異邦人の改宗に関わる問題について、ユダヤ人教師たちは律法特に割礼問題をもちこみ初代共同体に混乱をもたらした。
相違点は
・ 送り先
(ガラテヤ:小アジアのガラテヤ地域の信徒の共同体でパウロ自身がその創立に関わっていた。
ローマ:ガラテヤの共同体とは違い、その創立にパウロは関わっていない)。
・ 教会構成員に対する配慮
ローマの共同体にいる個々人の名前が出てくる
ローマ人の共同体にこの手紙を書いた段階では、パウロは行ったことはありません。
しかしながら、16章では、30人以上の個々人の名前が出て来て、「よろしく」
伝えて欲しいと伝えています。なぜ、これほどまでに知人がいたのでしょうか。
また、パウロ側のチームとも呼べる個々人についても、言及しています。
ガラテヤはパウロが創立した共同体にもかかわらず、ほとんど個人名が出てきません。「兄弟たち」「あなたがた」「物分かりのわるいガラテヤ人よ」。
16章にわたる長い手紙も、こういったジャンルの文書が日本にはないので、扱い方も理解の仕方も、特別なものがいるのではないかと思います。普通なら、15章で手紙は終わっているはずですが、ローマ書では、16章を加え個人情報が他の書簡にもないほど、多く(30人以上)出てきます。
テルテオ(16:22)がパウロの口述筆記をし、それをフィベ(16:1)が持って、ローマの教会に届けた模様です。
そこには、プリスカ、アクラ、エパネト、マリヤ、アンデロニコ、ユニアス、アムプリアト、ウルバノ、スタキス、アペレ、アリストブロ、ヘロデオン、ナルキソ、ツルパナ、タルポサ、ペルシス、ルポス、アスンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、ピロロゴ、ユリヤ、ネレオ、オルンパ…
関係家族の名前が列挙されています。
これほどまでに知人の名前が出てくる書簡は他にあるでしょうか。
パウロのチームには、テモテ、ルキオ、ヤソン、ソシパテロ、テルテオ、ガイオ、エラスト、クワルトなどの名前が挙げられています。テルテオやフィベを加えれば、初代教会の伝道者チームが意外なほどまとまっているように思えます。
初代教会の共同体は小さなグループを予想していましたが、これほど個人名が出てくるほど多くの人々が集まっていたようです。
聖霊降臨日に3000人ほどの人が信徒に加えられた等の記述があり、その中にはローマ出身の人もいただろうし、信じてローマに行った人もいたと思われます。その後の初代教会の驚異的な発展に関わっていると思われます。その方々とパウロがローマ以外のところで出会ったと考えられます。
49年クラウディウス帝がユダヤ人をローマから追放し、54年クラウディウス帝の死によりユダヤ人がローマへ戻って来ました。そういうユダヤ人の中にパウロの列挙した信徒がいたのではないでしょうか。
1:18以降には、ガラテヤ書さながらの過激な言葉が綴られています。これは、ディアトリベという論駁スタイルであるようです。日本の書簡にはこういうスタイルを取るものはあまり思いつきません。偽教師への警戒がこういう形になって現れて来たようです。
パウロにはローマを訪ねた後、イスパニア(スペイン:当時の地の果て)に伝道旅行をする計画があったようです。エルサレムで足止めをくらい、その計画は実現しませんでしたが。
1章 ガラテヤ書の初めにあるのと同じく、パウロの使徒性を主張しています。
また、恵みと平安を挨拶の初めにしています。
1:5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。
1:7 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
1:8〜15
ガラテヤ書では、挨拶が終わるとすぐ、責める言葉が出て来ますが、ローマ書では感謝の言葉と伝道の目的・気持ちが書かれています。ここに、パウロの未知の教会への配慮が見られます。
1:16〜17には福音の力が要約されています。それはユダヤ人、非ユダヤ人問わず全ての人に与えられる信仰による義認(救い)が述べられています。
ガラテヤ書にあるテーマと同じ信仰義認の箇所です。
1:16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
1:18-32 には人類の罪の問題が描かれています。ガラテヤ書では正しい信仰から外れていくことへの責めやそれを促す偽教師に対する非難が描かれていますが、ローマ書では地域的な問題というより、もっと普遍的な人間の罪という問題を描いています。
他人の歓心を引くだけの手紙であれば、こんな否定的なことなどに触れない方がいいと思いますが、福音の本質を明らかにするためには、避けて通れないものです。罪ということが分からなければ、信仰も救い(義認)も分からないからです。
ここを読むと、ローマ人の話ではなく、現在の私たちの話であると思います。目に見えぬ神への姿勢や偶像崇拝、情欲、同性愛、不義、悪、貪り、悪意、妬み、殺意、不和、欺き、邪念、陰口、そしり、神への憎悪、他者への侮蔑、高慢、大言壮語、企み、親への逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲
こうした罪を自ら行うだけでなく、周りにもその影響を与えています。
1:32 彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。
ローマ書の1章を見るだけでも、キリスト教の信仰の核が明らかにされているように思えます。
パウロ書簡のうちこの二書を深く比較しながら研究する人もいるようです。
(E.P.サンダース『パウロ』)
Comentarios