ガラテヤ書も最後の章になりました。文章の始めと終わりは特に、著者の思いがよく表れてくるところだと思います。パウロは、どうこの手紙をしめくくろうとしているのか興味深いところです。ガラテヤ書5章までは、パウロの言説は、ある程度、緊張を含み、論理的に、歴史的に説得しようと、緻密に文章が綴られています。しかしながら、6章は、律法の問題は前章までで取り上げられていますが、その他様々な問題が予想されます。パウロのススメの言葉から、だいたいの問題が予想できそうです。
① 罪過に陥っているクリスチャンへの対処法 v.1
② 重荷(苦労している点)の対処法 v.2
③ 説教者(聖書を教える人)と聴取者(教えてもらう人)との関係 v.6
④ 肉にまく者と霊にまく者 v.8
⑤ 善を行うこと v.9
⑥ 見えを飾ろうとする人(誇りたい人)・割礼を強要する v.11〜13
⑦ 新しく造られること v.15
こういう具体的な問題について、ガラテヤのクリスチャンたちは、アドヴァイザー、牧会者としてのパウロに、相談していたようです。それに対するパウロの姿勢が語られています。そういう意味で、これまでの5章の文章より、さらに個別的な感じがいたします。
例えば、
1 兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。
2 互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。
5 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。
6 御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。
などの言葉で答えています。
しかし、最終的には、
17 だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから。
と述べています。
パウロの17節の言葉は衝撃的です。面倒な相談ごとなどわたしにかけるな。自分たちで相互に解決できるだろうという含みを持っています。聖霊に導かれるというのは、そういうことができるように、クリスチャン同士されているということだと、今までの文脈から読み取れます。パウロはそれよりも、特別に選ばれ、キリストの所有とされていることの重要さを強調されているようです。
このパウロの言葉は、通常聞かされる牧師の言葉とは、ちょっと違っているように見えます。もし、牧師が、パウロのように言ったとしたらどう受け止められるでしょうか。私たちがよく懐く牧師像とは随分離れているのではないでしょうか。
牧師は、①メッセージ者、宣教者という面と、信徒を導く②牧会者、羊飼いの面の2つがあって、場合により、後者の私設カウンセラーとしての働きの方が、強調されることが多くあります。確かに、大切な働きと言えるでしょう。
カトリックでは、牧会者のことを親しみを込めて「パパ」と呼んでいます。頼りにするリ
ーダーです。しっかり頼れる人格者が教会の中心にいて、なんでも相談し、解決する実力者をイメージします。しかし、プロテスタントでは、その特徴として、「万人祭司」ということが言われます。クリスチャンは誰でも、他のクリスチャンへのとりなし、相談者になれるということです。
本来、教会で起こってくる問題は、誰か特別なリーダーに解決を求めるのではなく、こういうパウロのいうような形で解決を求めていくことが教会に求められているようです。
この6章でパウロが強調しているのは、キリストの十字架による罪の赦し、そして聖霊を受け、自由とされたクリスチャンには、お互いに重荷をおい合う関係になっていることを思い起こさせてくれます。聖霊のはたらきには、その相互的な、ある意味相互に牧会者の役割があるということを、この最後の章に言っているのではないでしょうか。コイノニアとはそういう相互の関係性の表し示す言葉のようです。
愛の反対は無関心だと言われています。今の時代は、また日本人は人間関係において、あえて波風を立てないように、行動を控えることが多いように思います。他人事ではなく、私自身が問われているようです。自由の霊を与えられた恵みに中に生きる者であると同時に、対立や不正に満ちた人間関係(クリスチャンの交わりに限定しない)に直面し、どのように考え、祈り、対処し、行動していくか、それぞれが立たされている場所でのあり方が問われているように思います。
クリスチャン同士は特に、相互の関係性の表すコイノニア(愛の関係性)の中に生きるよう招かれていることを、ガラテヤ書は終わりの章で強く述べています。
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