旧約聖書で言えば、過越の祭から50日目、新約聖書、キリスト教的に言えば、イエスの十字架刑、復活から50日目がペンテコステ(聖霊降臨日)となります。ユダヤ暦が太陰暦であるため、現在の西暦に直すと、毎年日は異なってきます。便宜上「移動祝祭日」となり、今年は、5月28日がペンテコステの日に当たるそうです。
クリスマス、イースターに比べて、このペンテコステ(聖霊降臨日)はまことに知名度が低く、おそらく、お祭り好きのディズニーランドでも永遠に祝われることはないでしょう。メリークリスマス、ハッピーイースターは聞かれても、スプレンディットペンテコステなどは聞くことはありません。ペンテコステにどんな形容詞をつければいいのかもわかりません。「最高の」「素晴らしい」「この上ない」「超絶」。みなさんだったら、どういう形容詞でペンテコステを言い表しますか。
ガラテヤ書の3:4 「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか」とパウロは書いていますが、その体験とは、3:2「あなたがたが“霊”を受けた」ことを意味するのでしょう。使徒行伝2:1以下のペンテコステの体験がガラテヤの信徒に共通する体験であったに違いないと思われます。
2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
そしてペテロがヨエルの予言を引用し、
17 神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ
と語るのです。そして、その説教を聞いて三千人の人が悔い改め、バプテスマを受けたとあります。そして、
47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
おそらく、この聖霊を受けるという体験は手紙の著者であるパウロもガラテヤの信徒も共通する体験であったに相違ないと思われます。だから、3:1から4までの強い言葉で語りかけています。
「物分かりの悪い」という言葉は、単に譴責して「ばかもの」と言っているのではない、そこには強い同情心のこもった感情が秘められていると内村鑑三は注釈していますが、その通りでしょう。私流に言わせてもらえれば、「なんともったいないことをしているのか」というところでしょう。
3:5以下はその体験と以下の怒涛のような言葉で論旨を展開しています。
律法、信仰、アブラハム、義認、祝福、呪い、イエス・キリスト、約束の御霊、遺言、約束、契約、相続の恵み、約束された子孫、天使たち、仲介者、罪の下にある、監視、啓示、閉じ込められた、養育係、神の子、キリストに合うバプテスマ、キリストを着た、人種的・階級的差別なくキリスト・イエスにあって一つ、キリストのもの、アブラハムの子孫、約束による相続人
あまりにも、詰め込みすぎていて短い小節ではついて行くのに息が切れてしまいそうに感じます。ここを単純化して、「律法」と「福音」と二項対立してしまえば、なんとなく理解できそうですし、従来そういう風に理解されてきたと思います。難しい箇所をわかるために単純化するといのは解釈する上での常套手段ですが、本当にパウロが述べている手紙の内容を全体で受け止めているのかというと、そうではないと私は思います。
論理性を重んじて、理由づけをしようとすると、ひとつの神学体系が出来上がってきそうに思います。確かにそれだけ重要な箇所。論理的な整合性を捉えるために、これらのこと全てを、多くの人は同一時間、同一空間で起こったこととして、いわば絵画的に処理しようとします。日本人は美的センスに優れていて、極めて視覚的、空間把握を得意としています。空間的把握ではどうしても無理が出てくる。
わたしは、今日の3章を読みながら、空間的、絵画的な把握ではなく、時間的な把握を、この場合した方がいいのではないかと感じました。空間的にジグソーパズルのように一つ一つの語句を組み合わせて一枚の絵を完成させるのではない方法で、この章を見ればどうかと思うようになりました。時間軸を設け、それぞれの時にそれぞれの用語を据え置き、時とともに考えが熟して行くという風に見て見るわけです。空間的に一枚の絵にはなりませんが、ひとつのテーマが時間によって変化してゆく。単なる変化ではなく、物事が成就していく。
聖書の出来事を時間の進行の中で捉えることが重要であるということに気づきました。
論理的整合性を以って、絵画的に信仰と律法を考えるのではなく、時間の中で展開し、成就していくことがらとして、この関係を捉えるのがいいと思います。こういう捉え方はあまり日本人は得意ではないかもしれないと感じられました。
自分の成長を振り返ったりする場合、過去の自分も自分であるに違いないが、成長後、いろいろ経験した後の違った自分がいることを想像して見ます。いつまでも、幼年期にとどまっているわけにはいきません。すでに成就された、達成されたところに従って生きるほかありません。
クリスチャンの信仰は時間とともに成熟していくものに違いありません。失敗したり、挫折したり、過去も今となっては、恵みの前味?に過ぎません。キリストにあるということの喜びは、全てを変えてしまうほどの驚くべき出来事です。
アブラハムを一番左に、少し右にずらしてモーセ、さらに少し右にずらしてイエス・キリスト、右にずらしてパウロ、私たち
そのようにして、それぞれの時代に関わる言葉として、3章5節以降をとら得ればどうかと考えるわけです。
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