序文について 2
<序文には著者の思いが凝縮されている>
先日は七夕でした。7月7日に行われる牽牛(ひこぼし)と織女(おりひめ)が年に一度だけゆるされて、天の川を渡って会える日で、子どもたちに短冊に願い事をかいて笹に飾る楽しい星祭りの行事です。中国から伝わった伝説がお話になって今も楽しまれています。
私が京都に住んでいた時、学校のそばに、と言いますか、構内の敷地のなかに日本家屋がありました。学校は道路をはさんで、京都御所の直ぐ北にあり、れんが造りの校舎でした。150年ほど経っていました。そこには日本家屋があり、白壁の倉庫があったりして特別な雰囲気をかもしだしていました。学校とは別の区切られた空間でした。
実は、学校より古い800年の歴史を持つ、今では珍しい貴族の家(公卿屋敷)でした。冷泉家(れいぜいけ)といいます。武家屋敷あとは全国にあり、観光するのは比較的簡単ですが、貴族の家というのは、あまり見ることはないかと思います。京都でもここ一軒だと思います。ゴールデンウィークと11月3日前後に一般公開されており、私も、学生の頃、2回ほど行ってみました。ここは、新古今和歌集の編者の藤原定家という歌人の子孫の冷泉家の邸宅です。ここからは比較的最近、定家の漢文で書かれた日記56年分の『明月記』が発見されて、国宝となったことでも知られています。詳しいことは、NHKの教養講座に冷泉家の800年という本で紹介されています。この家では、伝統にのっとり、七夕を祝う行事があり、少し私たちが祝う方法とは違い、乞巧奠(きっこうでん)と呼び、男女とも正式な着物を着て、必要な道具をそろえ、和歌を詠むことになっているそうです。
七夕の伝説が伝わったのは、かなり昔のようですが、冷泉家では、800年、この伝統を続けているようです。フィクションに基づく行事が800年の歴史をもっているのです、日本では。こんなに近くに何百年も受け継いでいる人たちがいたことに驚きました。
元来は中国大陸からきた壮大な天文学的な物語、銀河(あまのがわ)とわし座の星アルタイル(ひこぼし)とこと座のベガ(おりひめ)を擬人化した、とても想像力を喚起するラブロマンスで、もちろんフィクション(物語)です。フィクションでも、思いもかけぬ長い時間保存されて、現在にまで伝えられ、祝われているのです。
ヨハネによる第1の手紙の冒頭は序文に目を転じてみましょう。序文の所を前回読み始めました。今回はその続きです。
この手紙は、二世紀ごろに成立したと考えるなら、1800年近く前の文書が今も読まれており、しかも、この文書は「たなばたものがたり」のようなフィクションではないのです。1:1節には
初めから あったもの
私たちが 聞いたもの
目で 見たもの
手で 触ったもの
1:2、3節には
私たちに 現れたもの
私たちが 見たもの
聞いたもの
ὃ (=ho 〜するところのもの、〜するところのこと)という関係代名詞でこれらの文章が始まっていることを、前回見ました。(詳しく言うと中性単数関係代名詞)関係代名詞は日本語にはありませんので、なかなかピンとこないのですが、こういう「もの」「こと」を真っ先にもってくることによって、述べられていることが、どこか客観性を持っているように感じられます。これは、事実なんだ。ちょうど日本語の断定表現のように、有無をいわせぬ力をもっています。
「ヨハネ福音書には、先行詞を持たない中性単数関係代名詞に、幾つかの擬人的な用法が見られることを看過ごしてはならない。(注1)・・・このようなヨハネ福音書の中性単数関係代名詞ὃの擬人的な用法の理解に立つならば、手紙—1:1−4における中性単数関係代名詞ὃも、ロゴスであり命であるイエス・キリストを示していると考える蓋然性はは認められる」(津村春英 『「ヨハネの手紙一」の研究』p.25)
(注1)
ヨハネ1:3 成ったもの=被造物全体
4:22 あなたがたが知らないもの
わたしたちが知っているもの
ヨハネ6:37、39 17:2、24
それで、ὃが「キリストのできごと」「イエス・キリストそのひと」と訳してもよいのです。前回の終わりにこの訳を取り入れたんです。リビング・バイブルなどの敷衍訳はじめから「イエス・キリスト」と訳しています。そして、これは、フィクションではないんだぞ、確実なことがらだぞと、客観的なことなんだぞと言明しているようないいかたをしているのです。
そして、次に、面白いことに気づきます。この客観的な事実、イエスの出来事が、五感でとらえられるということが書かれている。非常に具体的な体験がここに合わせて書かれているのです。「私たちが 聞いたもの、目で 見たもの、手で 触ったもの」とあります。遠くから近くへ 体験が描かれています。1:3では逆に近くから遠くへという体験が描かれています。これは1つのことを交差してして表現する聖書的なキアスムスという手法です。
イエスのできごとがὃという関係代名詞で表わされており、客観性を帯びており、語りかける対象の人々と語りかける人が共通して知っている、あのこと、そのことというイメージで、客観的な姿勢が見えると思います。それと同時に、その関係代名詞を導く動詞、初めから「あった(存在した)、聞いた、見た、手で触った」というのは非常に具体的で、五官でとらえられるものです。共同体の共通認識の「イエスのできごと」ὃが実に私たちの体で感じ取られる体験となっています。
ヨハネ共同体の核にある、その客観的で具体的な体験としての「イエスのできごと」を、この手紙の著者は「いのちのことば」と書いています。「いのち」も「ことば」も 大和言葉です。漢語ではなく、むかしからの日本語です。やまとことばは非常に、ききとりやすいですが、深い意味合いをあらわすことができます。
1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―
1:2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである―
1:3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。
1:4 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。
1:1 Ὃ ἦν ἀπ’ ἀρχῆς, ὃ ἀκηκόαμεν, ὃ ἑωράκαμεν τοῖς ὀφθαλμοῖς ἡμῶν, ὃ ἐθεασάμεθα καὶ αἱ χεῖρες ἡμῶν ἐψηλάφησαν περὶ τοῦ λόγου τῆς ζωῆς–
1:2 καὶ ἡ ζωὴ ἐφανερώθη, καὶ ἑωράκαμεν καὶ μαρτυροῦμεν καὶ ἀπαγγέλλομεν ὑμῖν τὴν ζωὴν τὴν αἰώνιον ἥτις ἦν πρὸς τὸν πατέρα καὶ ἐφανερώθη ἡμῖν–
1:3 ὃ ἑωράκαμεν καὶ ἀκηκόαμεν, ἀπαγγέλλομεν καὶ ὑμῖν, ἵνα καὶ ὑμεῖς κοινωνίαν ἔχητε μεθ’ ἡμῶν. καὶ ἡ κοινωνία δὲ ἡ ἡμετέρα μετὰ τοῦ πατρὸς καὶ μετὰ τοῦ υἱοῦ αὐτοῦ Ἰησοῦ Χριστοῦ.
1:4 καὶ ταῦτα γράφομεν ἡμεῖς, ἵνα ἡ χαρὰ ἡμῶν ᾖ πεπληρωμένη.
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